丹波亀山城と大本教 [お城踏査]
丹波亀山城は京都府亀岡市にあります。
亀山城という城は三重県にもあって、どちらかというと三重県のほうが有名ですが、こちらの亀山城は明智光秀によって天正6年に築かれた城です。
天正10年の本能寺の変の際には、光秀はこの亀山城から出陣しています。
二度と帰ることはありませんでしたが。
江戸時代には岡部長盛が入り、本格的な城に修築しました。
このときには徳川家康も大坂城に近いこの城を重視して藤堂高虎が縄張りをしたといわれています。
そして5層の天守を建てました。
その後は形原松平氏が入って明治を迎えました。
明治になると城は取り壊されました。
現在は石垣が残るだけです。
実はこの亀山城跡は全てが大本教の本山となっています。
城跡全部が宗教施設なのです。
大本教は開祖は出口なおです。
なおは天保7年福知山市に生まれ、20歳の時に綾部の出口家に養女にでました。
明治25年、57歳のときに神がかり状態になりました。
出口王仁三郎は明治4年に亀岡市に生まれ、高熊山で修行を行い、後に出口なおの娘すみこと結婚して、大本教の基礎を築きました。
出口王仁三郎は大正8年に放置されていた亀山城跡を買い取り、石垣の修理をするなどして復興して、大本教の本山としました。
しかし、昭和10年、大本教の教義が天皇制と対立するとして政府から弾圧を受けて、城跡は徹底的に壊されました。
戦後は弾圧が終わり、再び亀山城の地に教団の本部を作りました。
城跡は宗教施設ですが、一部を除いて自由に見学できます。
その前に万祥殿という建物でお祓いを受けないといけません。
城跡全部が施設なのでかなり広いです。
亀山城の内堀の内部がほぼ本部で、いろいろな建物が建てられています。
入れない一部とは本丸のことで、ここよりは聖地として立ち入り禁止となっています。
石垣も全て破壊されましたが、積み直されています。
出口王仁三郎は子供の頃に亀山城が荒廃していくのを心に傷め、復元を願っていたので石垣の修復をしたようです。
積み直しがわかる部分もありますが、大部分はわからないくらいに丁寧な復元がされています。
天守の跡は月宮宝座といわれ最も神聖な場所です。
ここは見てみたいけど残念ながら見れません。
天守の隣には大公孫樹があります。
樹齢400年の大銀杏です。
亀岡市資料館にあった天守の模型です。
5層の塔層式の天守です。
破風が一切ないため極めてシンプルな外観です。
明治の古写真も残っています。
大本教の本部は亀岡市の他に綾部市にもあります。
綾部は開祖の出口なおが養女に行った先です。
そのため亀岡と綾部の二大聖地となっています。
亀岡は天恩郷、綾部は梅松苑と呼ばれています。
綾部市の聖地梅松苑です。
こちらもお城の御殿を思わせます。
まるで二条城の二の丸御殿のようです。
全て木造でかなり立派です。
これも出口王仁三郎がお城好きだったためかもしれません。
新興宗教の本部はデザイン的に奇抜な建物が多い中で大本教の建物が純日本風なのは、やはり出口王仁三郎の影響でしょうね。
亀山城という城は三重県にもあって、どちらかというと三重県のほうが有名ですが、こちらの亀山城は明智光秀によって天正6年に築かれた城です。
天正10年の本能寺の変の際には、光秀はこの亀山城から出陣しています。
二度と帰ることはありませんでしたが。
江戸時代には岡部長盛が入り、本格的な城に修築しました。
このときには徳川家康も大坂城に近いこの城を重視して藤堂高虎が縄張りをしたといわれています。
そして5層の天守を建てました。
その後は形原松平氏が入って明治を迎えました。
明治になると城は取り壊されました。
現在は石垣が残るだけです。
実はこの亀山城跡は全てが大本教の本山となっています。
城跡全部が宗教施設なのです。
大本教は開祖は出口なおです。
なおは天保7年福知山市に生まれ、20歳の時に綾部の出口家に養女にでました。
明治25年、57歳のときに神がかり状態になりました。
出口王仁三郎は明治4年に亀岡市に生まれ、高熊山で修行を行い、後に出口なおの娘すみこと結婚して、大本教の基礎を築きました。
出口王仁三郎は大正8年に放置されていた亀山城跡を買い取り、石垣の修理をするなどして復興して、大本教の本山としました。
しかし、昭和10年、大本教の教義が天皇制と対立するとして政府から弾圧を受けて、城跡は徹底的に壊されました。
戦後は弾圧が終わり、再び亀山城の地に教団の本部を作りました。
城跡は宗教施設ですが、一部を除いて自由に見学できます。
その前に万祥殿という建物でお祓いを受けないといけません。
城跡全部が施設なのでかなり広いです。
亀山城の内堀の内部がほぼ本部で、いろいろな建物が建てられています。
入れない一部とは本丸のことで、ここよりは聖地として立ち入り禁止となっています。
石垣も全て破壊されましたが、積み直されています。
出口王仁三郎は子供の頃に亀山城が荒廃していくのを心に傷め、復元を願っていたので石垣の修復をしたようです。
積み直しがわかる部分もありますが、大部分はわからないくらいに丁寧な復元がされています。
天守の跡は月宮宝座といわれ最も神聖な場所です。
ここは見てみたいけど残念ながら見れません。
天守の隣には大公孫樹があります。
樹齢400年の大銀杏です。
亀岡市資料館にあった天守の模型です。
5層の塔層式の天守です。
破風が一切ないため極めてシンプルな外観です。
明治の古写真も残っています。
大本教の本部は亀岡市の他に綾部市にもあります。
綾部は開祖の出口なおが養女に行った先です。
そのため亀岡と綾部の二大聖地となっています。
亀岡は天恩郷、綾部は梅松苑と呼ばれています。
綾部市の聖地梅松苑です。
こちらもお城の御殿を思わせます。
まるで二条城の二の丸御殿のようです。
全て木造でかなり立派です。
これも出口王仁三郎がお城好きだったためかもしれません。
新興宗教の本部はデザイン的に奇抜な建物が多い中で大本教の建物が純日本風なのは、やはり出口王仁三郎の影響でしょうね。
2011-06-23 23:22
nice!(88)
コメント(5)
トラックバック(0)
明治の写真 凄いですね(^^)
貴重な写真だぁ~
by (。・_・。)2k (2011-06-24 22:22)
明治の写真、往時が偲ばれます。 この写真で
同じ明治に取り壊された高取城を思い出しました。
by ため息の午後 (2011-06-24 23:22)
こんにちは。
大正時代には、史跡という考え方は無かったのでしょうか?
それとも、そう云う時代で無かったのでしょうか?
いずれにしても史跡を個人が購入できるとは…
by musselwhite (2011-06-24 23:29)
お城は取り壊されてしまったのですね、
石垣しか残ってないのは残念ですね。
by pandan (2011-06-25 06:16)
出口王二三郎は、とにかく元気いっぱい、精力絶倫だったそうですね。
和歌を何千首も詠んだり、器をたくさん焼いたり...
スケールの大きな方だったそうですよ。
そのスケールで、城を本拠に、と考えたのでしょうかねえ。
by ナツパパ (2011-06-25 22:52)