指月城(伏見城)発掘調査現地説明会 [発掘調査現説]
6月20日に指月城(京都市伏見区桃山町)の発掘調査現地説明会があったので、参加しました。
前日に全国紙各守ネットに大々的に出ていたので、人気があるとは思いましたが、まさかのものすごい人でした。
2300人の参加があったそうです。
やはりお城は人気ですね。
伏見城と言えば、安土桃山時代と言われるように豊臣秀吉の城のイメージが強いです。
しかし、伏見城の歴史は結構複雑です。
今、一般的に伏見城と思われているのは、伏見キャッスルランドの遊園地で、本来の伏見城ではありません。
豊臣秀吉は天正20年(1592)に伏見に隠居屋敷の建設を始めます。
後に淀城の天守や石垣を移築した大規模な城として完成しますが、文禄5年(1596)の大地震により倒壊します。
これが指月城です。
秀吉は地震の後、木幡山に伏見城を再建して、1年後に完成します。
秀吉は文禄3年(1598)にこの伏見城で亡くなります。
伏見城は関ケ原合戦の前哨戦で徳川家康の家臣鳥居元忠らが籠城しますが、西軍の攻撃を受けて落城します。
関ケ原合戦後には徳川家康は伏見城を再建して江戸の初期まで機能しました。
しかし、指月城はその痕跡は全くなく、不明の城で、その存在すら疑われていました。
今回、初めて指月城の遺構が確認されたのは大きな成果です。
ここは市営住宅が建っていて、その建替え工事のために発掘調査が行われました。
石垣と堀が見つかりました。
石垣は長さ36メートルにわたり見つかりました。
発掘された石垣の石です。
石垣は一辺1メートル以上の花崗岩や堆積岩で組まれていました。
石垣は下段の1~2段が出土しました。
高さは1メートルほどです。
本来は3段以上に積まれていたと推定されます。
最下段の石には胴木はありませんでしたが、石の間には間詰石が多くあり、裏込め石もありました。
石垣の積み方は穴太積みで、表面は60度の角度を付けています。
石の種類、大きさ、積み方は一昨年の聚楽第の石垣と類似しています。
また、秀吉時代の大坂城の石垣とも共通します。
伏見城(木幡城)の大名屋敷から見つかる石垣は花崗岩系の割り石を多用しているのに対して、伏見城の先行する聚楽第や大坂城は自然石が多く、割り石が少ないことが特徴です。
指月城の石垣も聚楽第などの古い特徴があります。
石垣の外の堀は幅7メートル以上あり、深さも現状でも2メートルありますが、堀底まで掘っていないので、4メートルを超えると思われます。
今後も堀底まで発掘調査を続けるそうです。
堀の断面図です。
石垣の下に犬走りを設けて、その下に堀を掘っていたようです。
堀には石垣がなく、素掘りでした。
とにかくものすごい見学者でした。
そのために少しずつ見学者を入れて、入れ替えての説明会でした。
また、堀の中から多くの金箔瓦が見つかっています。
金箔軒平瓦です。
金箔唐草文軒平瓦です。
滴水型です。
金箔桐文軒丸瓦です。
花菱文方形飾瓦です。
これらの瓦は聚楽第や大坂城と同型の瓦であり、金箔瓦の使用により、ここが指月城の遺構と推定する大きな根拠となっています。
また、これらが見つかった土層は一気に埋められていて、地震により倒壊した指月城の瓦などの廃棄材を堀に棄てて、埋め戻したと思われます。
指月城は図面も何も残っていないので、この堀の場所がどこの部分に当たるかは分かりません。
しかし、地形的に高くなっている三段の中央部であり、金箔瓦の使用からも本丸の堀の可能性があります。
ただ、この堀も集合住宅の建設のために埋め戻されます。
せっかくの遺構なのでなんとか残して活用できる方法はないものでしょうか。
前日に全国紙各守ネットに大々的に出ていたので、人気があるとは思いましたが、まさかのものすごい人でした。
2300人の参加があったそうです。
やはりお城は人気ですね。
伏見城と言えば、安土桃山時代と言われるように豊臣秀吉の城のイメージが強いです。
しかし、伏見城の歴史は結構複雑です。
今、一般的に伏見城と思われているのは、伏見キャッスルランドの遊園地で、本来の伏見城ではありません。
豊臣秀吉は天正20年(1592)に伏見に隠居屋敷の建設を始めます。
後に淀城の天守や石垣を移築した大規模な城として完成しますが、文禄5年(1596)の大地震により倒壊します。
これが指月城です。
秀吉は地震の後、木幡山に伏見城を再建して、1年後に完成します。
秀吉は文禄3年(1598)にこの伏見城で亡くなります。
伏見城は関ケ原合戦の前哨戦で徳川家康の家臣鳥居元忠らが籠城しますが、西軍の攻撃を受けて落城します。
関ケ原合戦後には徳川家康は伏見城を再建して江戸の初期まで機能しました。
しかし、指月城はその痕跡は全くなく、不明の城で、その存在すら疑われていました。
今回、初めて指月城の遺構が確認されたのは大きな成果です。
ここは市営住宅が建っていて、その建替え工事のために発掘調査が行われました。
石垣と堀が見つかりました。
石垣は長さ36メートルにわたり見つかりました。
発掘された石垣の石です。
石垣は一辺1メートル以上の花崗岩や堆積岩で組まれていました。
石垣は下段の1~2段が出土しました。
高さは1メートルほどです。
本来は3段以上に積まれていたと推定されます。
最下段の石には胴木はありませんでしたが、石の間には間詰石が多くあり、裏込め石もありました。
石垣の積み方は穴太積みで、表面は60度の角度を付けています。
石の種類、大きさ、積み方は一昨年の聚楽第の石垣と類似しています。
また、秀吉時代の大坂城の石垣とも共通します。
伏見城(木幡城)の大名屋敷から見つかる石垣は花崗岩系の割り石を多用しているのに対して、伏見城の先行する聚楽第や大坂城は自然石が多く、割り石が少ないことが特徴です。
指月城の石垣も聚楽第などの古い特徴があります。
石垣の外の堀は幅7メートル以上あり、深さも現状でも2メートルありますが、堀底まで掘っていないので、4メートルを超えると思われます。
今後も堀底まで発掘調査を続けるそうです。
堀の断面図です。
石垣の下に犬走りを設けて、その下に堀を掘っていたようです。
堀には石垣がなく、素掘りでした。
とにかくものすごい見学者でした。
そのために少しずつ見学者を入れて、入れ替えての説明会でした。
また、堀の中から多くの金箔瓦が見つかっています。
金箔軒平瓦です。
金箔唐草文軒平瓦です。
滴水型です。
金箔桐文軒丸瓦です。
花菱文方形飾瓦です。
これらの瓦は聚楽第や大坂城と同型の瓦であり、金箔瓦の使用により、ここが指月城の遺構と推定する大きな根拠となっています。
また、これらが見つかった土層は一気に埋められていて、地震により倒壊した指月城の瓦などの廃棄材を堀に棄てて、埋め戻したと思われます。
指月城は図面も何も残っていないので、この堀の場所がどこの部分に当たるかは分かりません。
しかし、地形的に高くなっている三段の中央部であり、金箔瓦の使用からも本丸の堀の可能性があります。
ただ、この堀も集合住宅の建設のために埋め戻されます。
せっかくの遺構なのでなんとか残して活用できる方法はないものでしょうか。
2015-06-22 01:23
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コメント(10)
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歴史や考古学に興味のある人多いね!
この行列にビックリ!^^
by hatumi30331 (2015-06-22 09:40)
ありがとうございます。
夫々趣味も違いますね。考古学に夢を持ってる
方々も多いんですね。
by ryuyokaonhachioj (2015-06-22 10:16)
ほんとお城は人気ですね。
参加された方の多さにビックリ。
残念なことに埋め戻されちゃうんですね。
後は文献が残るのみですか。
石碑くらいは建つかな?
by 川崎工場長 (2015-06-22 17:46)
伏見城の歴史ってなかなか奥深いですねっ゚д゚)
個人的に姫路城にまつわる怪談が好きなのです^^;
by ワンモア (2015-06-22 18:29)
小学生の頃に、伏見キャッスルランド遊園地へ行きました。
駿府城址、松本城を愛していたので、これは違う!と思いました。
by hanamura (2015-06-22 20:00)
桃山時代の政治の中心地ですから、すごいものが見つかるのも当然ですね。すごいです!
by 袋田の住職 (2015-06-23 05:50)
いろいろ出てきますね~
by green_blue_sky (2015-06-23 05:50)
おはようございます。
埼玉にも色々有る様ですね。
by YUTAじい (2015-06-23 07:13)
凄い人気ですね。
ハッキリしなかった歴史のページに、発掘された成果が書きくわえられる・・・まさに考古学の醍醐味ですね。
一部焼け落ちたように見える瓦もありますが・・・いやー、実物をこの目で見てみたいです。
by 駅員3 (2015-06-23 07:31)
さすがですね、金箔がある。
by 夏炉冬扇 (2015-06-23 07:34)