竹千代は松平広忠が織田信秀に差し出した人質だった [歴史雑話]

読売新聞online 6月29日号の記事に衝撃的な記事が載っていました。
以下に記事を引用します。


信長の父「三河を支配」中京大教授が新説

織田信長の父・信秀が三河の岡崎(現在の愛知県岡崎市)を一時的に支配していたことが、村岡幹生・中京大教授(日本中世史)の研究で分かった。今春刊行の「愛知県史資料編14」で公表された。徳川家康が幼少期に「誘拐」されて織田家の人質となったとの通説も誤りの可能性が高いという。

 村岡教授が注目したのは、新潟県三条市の本成寺が所蔵する、法華宗の高僧、日覚が尾張や京都からの情報を記した「菩提ぼだい心院日覚書状」。

 「岡崎は弾正忠へ降参し、命からがらの様子」「弾正忠は三河を平定し、翌日、京都に上った」などと記されている。「弾正忠だんじょうのちゅう」とは、当時の官職の名称で、織田家は信長まで3代にわたってこの職を名乗っていた。村岡教授が現地で調査したところ、この書状は1547年(天文16年)に書かれたことが判明し、弾正忠とは信秀、「岡崎」は家康の父、松平広忠を指すことが確認されたという。

 広忠は信秀からの攻撃に備えて駿河の今川義元に支援を要請。今川は広忠の長男、竹千代(徳川家康の幼名)を人質として要求した。

 通説では、同年、竹千代の護送役の田原城(現在の愛知県田原市)城主、戸田康光が裏切って信秀に竹千代を売り飛ばしたとされている。しかし、これまで、戸田がなぜ裏切ったのか謎とされてきた。

 村岡教授は「広忠が信秀に降参して竹千代を織田家へ差し出した可能性が高い」と指摘。通説については「天下人となった家康が父親を神格化するため、誘拐されたことにしたのかもしれない」と推測する。

 もっとも、岡崎は1548年の「小豆坂の戦い」をきっかけに、今川の支配下となった。翌年、今川の捕虜となった信秀の息子と、織田家の管理下にあった竹千代とを交換することとなり、竹千代は今川家の人質となった。

 本郷和人・東大史料編纂所教授(日本中世史)の話「織田がこの時に家康を人質に取った可能性が出てきた非常に重要な発見だ。信秀がどの程度三河を支配していたかについては慎重な議論が必要となる」

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衝撃的な内容です。
びっくりです。
史実だったら歴史を塗り替える発見です。


ここで『愛知県史』14からその書状を見てみよう。


菩提心院日覚書状
(前略)
一、三州ハ駿河衆敗軍の様ニ候て、弾正忠(織田信秀)先以一国を管領候、威勢前代未聞之様ニ其沙汰共候、
(中略)
一、彼楞厳坊申状ハ、鵜殿仕合ハよくも有間敷様物語候、其謂ハ尾と駿と間を見あわせ候て、種々上手をせられ候之処ニ、覚悟外ニ東国はいくん(敗軍)ニ成候間、弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候、定而彼地をも只今の時分ハ攻いらんやと致物語候間、あまりに□□(無心カ)許存候間、近日心□(候カ)坊を可差遣覚悟にて候、岡崎(松平広忠)ハ弾(織田信秀)江かう参之分にて、からゝの命にて候、弾は三河平均、其翌日ニ京上候、其便宣候て楞厳物語も聞まいらせ候、万一の辺も候てハ、門中力落外見実義口惜次第候、(後略)
(天文16年)九月廿ニ日
菩提 日覚(花押)
本成寺

この書状が天文16年のものの説明がないので、それに従うとして、書状を読む限りでは、
①駿河衆(今川氏)が織田氏に負けた。
②松平広忠は織田信秀に降参し、信秀は三河を平定した。翌日信秀は京に上った。

この2点である。

「広忠が信秀に降参して竹千代を織田家へ差し出した可能性が高い」というのは村岡教授の想像であることがわかる。

また、天文16年に降伏し、織田氏に竹千代を差し出した松平氏が何故17年の小豆坂合戦は今川氏に従っているのか。
どのように岡崎城を奪還したのか。
どうして信秀は広忠が今川氏に付いたのに、竹千代を殺さなかったのかも疑問となる。

この当時今川氏は今橋城、田原城、牛久保城、長沢城など東三河の主要な城は押さえており、東三河は今川氏支配下であった。
信秀が支配下に置いたのは西三河で、三河を平定したというのは当たらない。

この翌年は小豆坂合戦である。

天文16年8月25日付今川義元判物で奥平定能が叔父藤河久兵衛尉とともに医王山砦を攻略した恩賞として、山中に知行を与えられている。
医王山砦は岡崎市の山中城のことで、当時は織田方になっていたのであろうか。

また、天文17年3月11日の北条氏康の織田信秀宛の書状に

仍三州之儀、駿州無相談、去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候、毎度御戦功、奇特候、殊岡崎之城自其国就相押候、駿州ニも今橋被致本意候、

とあり、天文16年に安城城を織田氏が落として、岡崎城を押さえているとあるのはこのことでしょうか。

今川氏真が松井宗信の功績を書き出した文書でも

松平蔵人・織田備後令同意、大平・作岡・和田彼三城就取立之、医王山堅固爾相拘、其以後於小豆坂、駿・遠・三人数及一戦相退之故、敵慕之処、宗信数度相返条、無比類之事

このころ松平蔵人が大平・作岡・和田の3城を取り立てたとあり、大平、作岡は岡崎城の東にあり、織田氏の勢力が岡崎城を越えてきていたことがわかる。

小豆坂合戦は天文11年と17年の2回説があり、現在では11年はなく、17年の1回説が有力である。
しかし、岡崎市史2では奥田敏春氏はこの文書を元に天文16年にもあったという説を提示している。
大平・作岡・和田と医王山の間に小豆坂はあり、織田氏と今川氏が戦ったのは必然であり、織田氏は医王山城(山中城)の攻略を目指していたといえよう。

16年は織田氏が勝ち、17年は今川氏が勝ったということになるのか。
しかし、織田氏も16年は目標の医王山城は攻略できなかった。
岡崎城は一時的に押さえたのか。

竹千代は戸田氏が途中で奪って織田氏に送ったとしている。
確かに不自然な事件で、戸田氏が竹千代を奪う必然性は低いので、ストーリーとしては可能性はあるであろう。
しかし、あくまでも想定の一つであり、これが史実となるには更なる史料が必要となろう。
そもそも当時の史料とはいっても当事者では手紙なので、聞き間違いの可能性も考えられる。

愛知大学の山田邦明教授が最近出版した『戦国時代の東三河 牧野氏と戸田氏』のなかでも、戸田康光の竹千代強奪事件はなかったとしていて、この事件については見直しが必要な時期に来ている。

しかし、歴史はこういう新しい発見や史実の見直しがあるので面白い。


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織田信秀像

岐阜城信長居館跡 [お城踏査]

岐阜城の織田信長居館跡です。

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岐阜公園から居館に入る冠木門です。
もちろん復元で、厳密なものではなく、公園に入るための門です。

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虎口です。
大きな石が使われています。
石垣というよりは石の壁です。
フロイスが大きな石の壁と表現したのもわかります。

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虎口の図面です。
升形というよりは通路みたいです。

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岐阜公園の板垣退助像です。
板垣は岐阜公園で演説中に暴漢に襲われました。
そのとき言ったのがあの有名な台詞「板垣死すとも自由は死せず」

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信長居館は今も発掘調査中です。

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過去の発掘成果をもとに描いた信長居館の想像図です。

滝や池があったようです。

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