第 31 回全国城郭研究者セミナー [お城情報]

毎年恒例の城郭研究者セミナーです。
今年は九州大学が会場と遠いですが、頑張って参加したいと思います。
申込は過ぎていますが、当日参加も多少は可能のようです。
城についてもう少し詳しく知りたい方はお勧めです。


第 31 回全国城郭研究者セミナーのご案内とシンポジウムの趣旨

拝啓 梅雨のみぎり,皆様におかれましては調査にご研究にご活躍のこととお慶び申し上げます.

全国の城郭研究者が一堂に会し,全国を視野におさめた研究成果の交換と,研究者同士の交流を深めようという目的で始まった全国城郭研究者セミナーも第 31 回を迎え,初めて九州の地で開催する運びとなりました.会場は九州大学「西新プラザ」です.シンポジウムのテーマは,「近世城郭をどう捉えるか」といたしました。

1980 年初頭を端緒とする現在の城郭研究は、研究者や関心を寄せる方も随分と増え、書店には城郭関係雑誌が並ぶほどの盛況ぶりを呈しています。しかしながら、その内実をみると、表向きの盛況とは裏腹に、城郭の構成部位や築城資材等を「縄張り」の構造の中に位置づけて捉える、城郭を個別単体のみでなく「システム」・「体系」の観点から捉えるという、当初の基本的研究姿勢が希薄になってきているように思えます。総じていえば、1980 年- 90 年代の城郭研究創始期には強く意識されていた、城郭を「史料」として社会構造を読み解く、つまり、城郭を社会史に位置づけて捉えるという学問として当然の意識が、うまく理解・継承されていないように思えます。そこで、この基本的意識の重要性を再確認するのに適材と思える題材として、城郭が社会秩序の中で至高の位置づけを獲得して行く近世初頭期の社会構造とその特質を、「近世城郭をどう捉えるか」という観点から考えてみたいと思います。

なお、今回は試験的試みとして、「基調報告」を下地にしながら、下記のような幾つかの具体的論点を提示し、議論を深めたいと考えております。

昨今、近世城郭が担う「儀礼・象徴性」と「軍事」を相剋的なものと捉えがちですが、果たしてその認識は妥当なのかを問います。具体的には天守や金箔瓦、石垣等の使用をもって「戦う城から見せる城へ」という表層的理解だけで済ませるのではなく、儀礼・象徴性が城郭のどのような場所に、如何なる場合に、どのような形態で表現されるのか。また、何故、城郭という施設で表現される必要があったのか。儀礼・象徴性を担う「かたち」や「もの」が何故、どのような経緯から「儀礼」・「象徴」に昇華したのかなどを探求します。例えば、横矢掛かりが形骸化しつつも継承され、島原城本丸南東隅のような実効性を超越したと思える形態や、広島城・唐津城外郭のように均等割に配される形態が出現することの意味。天守「建築」を持たずとも天守「台」さらには「台」に見立てた不整形の小丘だけでも天守の存在の代用を果たせる社会的認識が成立する過程とその意味。登城の際、枡形の中で直角に折れて進む行為などが一つの切り口になろうかと思います。また、城郭以外でも近世寺社において、三手先組物が桔木の多用に伴って構造的役割を低下させる一方、「格式」化と結び付いて高級意匠材として生き残る現象等は示唆に富むものと思います。
織豊系城郭から近世城郭が創出される過程で、特に元和・寛永期以降、縄張りが定型化・システム化の傾向を強めて行く意味を考えます。これに絡んで、『慶長肥後国絵図』・『慶長長門国・周防国図』・『九州諸城図(慶長 17 年頃ヵ)』(毛利家文庫)等からも窺えるのように、「櫓」建築の姿絵(箱モノ)を記号的に描けば、それで「城」であると認識されるような城郭観の成立は何を意味するのかを考えます。これは、「儀礼・象徴性」と「軍事」の関わりや、「縄張り」の平面形態そのものと瓦葺塗込礎石建物・石垣等の構成材料に対する当期の認識にも関係する問題です。
織豊取立大名だけでなく、九州・東北の旧族大名衆や東国の徳川譜代大名衆が創出した近世城郭の縄張りの形態を通して、彼等にとっての「近世城郭像」、「近世大名像」とは如何なるものだったのかを考えます。例えば、東国譜代大名や伊達氏による丸馬出や重ね丸馬出、角馬出(関東型)の再生産(庄内城・宇都宮・川越・慶長期江戸城等)や、織豊取立大名を除く関東・東北大名衆による「土造りの城」文化の再生産は、彼らの如何なる権力体質や意図を反映したものだったのか、示唆的と思える現象を取り上げながら考えます。また、東国大名時代に箕輪・結城・大多喜城という、“いかにも東国らしい縄張り”の城郭を居城にしていた井伊・結城・本多氏が、関ヶ原戦後に西国へ転出した途端、東国に居残った他の譜代大名たちの居城とは全く色合いを異にする近世居城を構築する(すなわち、一変して織豊取立大名が構築するような、総石垣造りでかつ織豊系縄張りの規範に即した彦根・福井・桑名城を構築する)に至る現象などを事例につつ、「東国」と「西国」という大きな枠組みからみた「近世城郭観」の成立過程とその意味を考えます。
石垣・瓦・礎石等の城郭の構成部材・築城資材を単線的な技術的発展論(先進モデルの編年・系統論)の観点のみで捉えるのではなく、文禄・慶長期における新旧技術・技法の錯綜や逆転的とも思える現象などを踏まえながら、その意味を考えます。例えば、瓦の製造技法(コビキ技法など)や文様、石垣の材質や加工、積み方の技術・技法などが、一大名領国内でも大きな偏差を持つ場合が少なからず見受けられることの意味を、工人の支配・動員体制、家臣の知行地支配などの観点から考えます。また、寺澤期岸岳城の石垣石材のように、従来、花崗岩等の硬質石材の加工に使われる矢穴技法が軟質の緑色砂岩石材の加工にまで用いられる一方、肥前名護屋城石垣(海岸採取の玄武岩)で多用された矢穴技法が福岡城慶長期石垣(海岸採取の玄武岩)では皆無に近いという現象がみられます。このような錯綜・逆転的現象に示される築城資材に対する当期社会の認識や要求は如何なるものだったのかを考えます。その際、筑前黒田領の鷹取城と益富城などにみられるような、「縄張り」プランの先進性と築城資材(石垣、瓦、礎石、漆喰など)の先進性が乖離する現象(つまり「設計」と「施工」が乖離する現象)を併せて視野に置きつつ、その後の元和・寛永期の様子との比較を通じて、築城と「システム化」社会の成立の関係を考えます。
大名居城と支城の在り方やそれらの縄張りの形態、大名居城・支城が包摂して行った社会的諸機能(経済、軍事、政治)の観点から、近世城郭の特質を考えます。例えば、庄内乱時の伊集院氏の挙動(知行地の居城・支城で 自力」を結集して主家島津氏を相手に一大籠城戦を展開)と黒田騒動時の栗山氏の挙動(福岡城三ノ丸内自邸に“謹慎”し、主家黒田氏を相手に対幕府交渉戦を展開)の違いなどは、伝統的武家理念「自力・私戦」の行方と「政治的場」としての近世大名居城の成立を考えるうえで示唆的と思います。また、この延長上に、日本版“都城”ともいえる近世大名居城と「兵農分離」思想の関係を、昨今の些末な事例・実態の議論に囚われることなく、大局的視点から捉えたいと思います。
学史を振り返ると、千田嘉博「織豊系城郭編年案」が「織豊系城郭」から「近世城郭」への技術的・技法的連続性を解明したことによって、城郭の縄張りを個別・場当たり的な解釈に埋没・帰着させることなく、「システム」や「体系」という視点で捉える思考の重要性が確認されました。この視点を土台に、織豊政権期と徳川初頭期の間にどのような差異や変遷が看取できるのか、それが何を意味するのかを考えます。例えば、「本城・支城体制」を(個々の城郭の差異は取り敢えず脇に置く)領国・家臣団の「統治のシステム」という視点で捉えた場合、国持ち大名細川氏では、豊臣政権期(丹後国主期)と徳川初頭期(豊前国主期)の間に大きな差異が見受けられ、注目されます。すなわち、本城の著しい巨大化のほか、本城・支城の形態をみると、丹後国主期の支城が在地系城郭をそのまま利用するのに対し、豊前国主期の支城はそれなりの織豊系城郭のスタイルを持つようになります。このような差異は、単に技術・技法の発展で説明できる問題ではありません。また、現象の表層だけを捉えた「経年に伴う段階的な全体の底上げ」という説明も短絡に過ぎます。豊臣政権期と徳川政権初頭期の余剰収奪システムを含めた領国支配や家臣団統治の如何なる変質を意味するのかが問われるであろうと思います。そして、その延長に、元和「城割」・寛永「城割」の意味を考えます。その際、慶長期における支城群と鉄砲隊の行方を比較してみるのも一つの切り口かと思います。織豊期以来、飛躍的に増強され進化し続けてきた「火力」(鉄砲・大筒)に、元和偃武は大きなブレーキを掛けました。これは、「火力」を直接は操作せず、意識面では弓馬槍術を「武」の上位に置く上級士分たちが、階級革命に対する切実な危機感(このまま進めば、「武」における実質的な実力だけでなく、面目までも鉄砲足軽とその指揮官である鉄砲足軽大将クラスに取って代わられる)を募らせた結果と考えられます。関ヶ原戦直後から急激な勢いで、地域的偏差を内包しながらも「織豊系城郭」化が進行し、豊臣政権期を遙かに凌駕するレベルのものへと強化される大名居城と支城群の行方は、「核兵器の拡散」にも似た様態を呈しており、ある意味、徳川将軍家、大名家当主ら最上級支配層にとって、鉄砲隊の増強・進化の行方と同質の危機感(有事体制を梃子にした大名家、支城主層の増長)を抱かせるものがあったと思われます。
上記の事柄を一つの論点に、忌憚ない議論が交わされることを期待しております。つきましては、皆様のご参加・ご協力を御願い申し上げます。

第31回全国城郭研究者セミナー
テーマ:近世城郭をどう捉えるか
日 時:2014年8月2日(土)~3日(日)
場 所:九州大学西新プラザ(福岡市早良区西新2-16-23)
参加費 3000円 懇親会 6000円
内 容
2日
「肥後相良領の近世城郭」鶴嶋俊彦氏(熊本城調査研究センター)
「豊前・小倉城発掘調査より」中村修身氏(北部九州中近世城郭研究会)
「城郭パーツの組成と年代観」山本浩之氏(中世城郭研究会)
「「松浦型プラン」の研究視点」林 隆広氏(大村城南高等学校)
「山寺の空間的変遷と城郭」藤岡英礼氏(栗東市文化振興課)
「慶長 20 年一国一城令の発給と実際」花岡興史氏(九州文化財研究所)
「近世城郭における技術発展と規格化」山上雅弘氏(兵庫県立考古博物館)
懇親会 ホテル福岡ガーデンパレス
3日
「近世の社会と城郭観」太田秀春氏(鹿児島国際大学)
「近世城郭の形成と大名権力」中西義昌氏(北九州市歴史博物館)
「近世城郭史料論」千田 嘉博氏(奈良大学)
シンポジウム
問合せ
〒812-8581 福岡市東区箱崎 6-10-1 九州大学
人間環境学研究院 都市・建築学部門 建築史研究室 木島孝之
Tel: 092-642-3350; fax: 092-642-3353

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