唐津城 その8 [お城踏査]
唐津城、まだまだ続きます。
二の丸の石垣です。
二の丸には御殿がありました。
今は早稲田佐賀高校になっています。
ここからいよいよ本丸に登ります。
本丸までは長い階段が続きます。
途中ところどころに小さな曲輪はありますが、基本的に一本の階段です。
本丸の下の二の曲輪です。
虎口の門の礎石です。
藤棚があって暗いです。
本丸の一の門です。
鉄筋コンクリートで復元されたものです。
一の門の門扉です。
一の門から見た天守です。
よく見ると石垣の一部がありません。
石垣の崩壊の恐れがあったので、解体修理をしていました。
天守はそのままで、石垣のみを解体して積み直していました。
唐津城は豊臣秀吉の家臣だった寺沢広高が慶長7年(1602)から7年をかけて築城しました。
寺沢氏はもともと美濃の出身でした。
唐津城は鶴が羽を広げたように見えたことから舞鶴城とも呼ばれました。
寺沢氏は天草にも領地をもっていたため、島原の乱の責任を問われて改易されます。
後は、大久保氏、松平氏、土井氏、水野氏、小笠原氏などの譜代大名が入ります。
化粧櫓です。
中は収蔵庫になっています。
復元されたものです。
亀頭櫓です。
中は売店になっています。
この櫓もどこまで厳密に復元したかわかりません。
本丸北門です。
工事中につき、中は通れません。
櫓のように見えますが、麓から上るエレベーター乗り場です。
唐津城は櫓などが建てられていますが、結構怪しい建物が多いです。
天守です。
天守はあったかどうかわかりません。
江戸時代には天守台のみ築かれていました。
昭和41年に建てられたものです。
いわゆる模擬天守です。
肥前名護屋城の天守を移築する計画だったとも言われていますが、真相はわかりません。
形は会津若松城に似ていると感じました。
模擬天守ですが、建築から長い年月がたち、景観に馴染んでいます。
この天守台ならこの程度の天守があってもおかしくないかなと思わせます。
本丸付近の絵図です。
絵図にも天守は描かれていません。
天守台の石垣のみです。
(続く)
二の丸の石垣です。
二の丸には御殿がありました。
今は早稲田佐賀高校になっています。
ここからいよいよ本丸に登ります。
本丸までは長い階段が続きます。
途中ところどころに小さな曲輪はありますが、基本的に一本の階段です。
本丸の下の二の曲輪です。
虎口の門の礎石です。
藤棚があって暗いです。
本丸の一の門です。
鉄筋コンクリートで復元されたものです。
一の門の門扉です。
一の門から見た天守です。
よく見ると石垣の一部がありません。
石垣の崩壊の恐れがあったので、解体修理をしていました。
天守はそのままで、石垣のみを解体して積み直していました。
唐津城は豊臣秀吉の家臣だった寺沢広高が慶長7年(1602)から7年をかけて築城しました。
寺沢氏はもともと美濃の出身でした。
唐津城は鶴が羽を広げたように見えたことから舞鶴城とも呼ばれました。
寺沢氏は天草にも領地をもっていたため、島原の乱の責任を問われて改易されます。
後は、大久保氏、松平氏、土井氏、水野氏、小笠原氏などの譜代大名が入ります。
化粧櫓です。
中は収蔵庫になっています。
復元されたものです。
亀頭櫓です。
中は売店になっています。
この櫓もどこまで厳密に復元したかわかりません。
本丸北門です。
工事中につき、中は通れません。
櫓のように見えますが、麓から上るエレベーター乗り場です。
唐津城は櫓などが建てられていますが、結構怪しい建物が多いです。
天守です。
天守はあったかどうかわかりません。
江戸時代には天守台のみ築かれていました。
昭和41年に建てられたものです。
いわゆる模擬天守です。
肥前名護屋城の天守を移築する計画だったとも言われていますが、真相はわかりません。
形は会津若松城に似ていると感じました。
模擬天守ですが、建築から長い年月がたち、景観に馴染んでいます。
この天守台ならこの程度の天守があってもおかしくないかなと思わせます。
本丸付近の絵図です。
絵図にも天守は描かれていません。
天守台の石垣のみです。
(続く)