名護屋城@佐賀県唐津市 その4 [お城踏査]

唐津市鎮西町の名護屋城の続きです。

kyusyu 183.jpg

馬場跡です。
本丸のすぐ下にあります。

ここで馬を走らせていたのでしょうね。

直線の細長い曲輪です。

kyusyu 205.jpg

馬場櫓台です。

馬場の中ほどにあります。

kyusyu 206.jpg

二の丸から見た本丸石垣です。

ここも隅が壊されています。
「破城」の跡です。

名護屋城の整備は壊れた石垣を積みなおすのではなく、「破城」によって壊された石垣そのものが歴史的資料ということで、壊されたままの状態で保存しています。
壊れた状態も歴史なのです。

kyusyu 209.jpg

遊撃丸から見た天守台です。
石垣はみごとに外されています。

kyusyu 198.jpg

本丸から見た遊撃丸です。
周囲を石塁で囲んでいます。
非常に防御性の高い曲輪です。
天守台の直下にあるからでしょうか。
左下は虎口です。

kyusyu 208.jpg

遊撃丸の石垣です。

ところどころ石垣が崩されています。

kyusyu 213.jpg

遊撃丸の石塁です。
とてもきれいに残っています。

整備のため一部積み直されています。

kyusyu 214.jpg

二の丸の舟手口です。
ここから海に通じていました。

二の丸とはいうものの、む二の丸からは直接本丸には通じていませんでした。

kyusyu 215.jpg

二の丸の石垣です。
合坂になっています。

kyusyu 216.jpg

弾正丸の虎口です。
搦め手門です。
弾正丸には浄水場が建てられています。
弾正丸の名は浅野長政がいたことに由来します。
浅野長政の官職名が「弾正少弼」といったからです。

(続く)


名護屋城@佐賀県唐津市 その3 [お城踏査]

名護屋城の続きです。

名護屋城は現在は唐津市ですが、合併以前は鎮西町でした。
唐津市も広くなりました。

kyusyu 223.jpg

名護屋城の図です。
織豊期城郭らしい整然とした縄張りです。

kyusyu 192.jpg

本丸の天守台です。

石垣は破壊されていて残っていません。
やはり重要部分なので徹底的に破城されています。

kyusyu 193.jpg

天守跡の石碑です。

隅に建てられています。

kyusyu 194.jpg

天守台の説明です。

これも陶板です。

kyusyu 195.jpg

天守の平面図のアップです。

ここには五重の天守が聳えていました。

天守の大きさは東西19メートル、南北23メートルの長方形でした。

nagoya 134.jpg

肥前名護屋城図屏風に描かれた天守です。

五重で内部は7階の立派な天守でした。

kyusyu 197.jpg

天守台は実際より小さく感じました。
石垣がなくなっているからでしょうか。

周囲は土塁状に高まりがありました。
もしかしたら穴蔵になっていたのでしょうか。
礎石が一部残っていました。

kyusyu 202.jpg

名護屋城の石碑です。

本丸からは海がよく見えます。

kyusyu 203.jpg

本丸には秀吉の御殿が建てられていました。

今は礎石しかありません。

礎石によって平面復元されています。

kyusyu 204.jpg

本丸の図面です。

nagoya 135.jpg

屏風の本丸部分です。
本丸には所狭しと御殿が建ち並んでいました。
秀吉の黄金の茶室もあったようです。

(続く)


名護屋城@佐賀県唐津市 その2 [お城踏査]

名護屋城の続きです。

kyusyu 184.jpg

三の丸の隅櫓台です。

kyusyu 185.jpg

石垣はしっかりしています。
櫓台の登り口です。

kyusyu 181.jpg

櫓台の説明です。
一時はやった陶板によるものです。

名護屋城は説明は充実しています。

kyusyu 189.jpg

本丸新石垣櫓台です。

名護屋城は寿命の短い城でした。
天正19年(1591)に築城されて、慶長3年(1594)に秀吉が没すると朝鮮から引き上げます。
関ヶ原合戦後には廃城となったと思われます。

こんな短い城でも、遺構が2時期あるとは驚きです。

kyusyu 191.jpg

本丸の多聞櫓の跡です。
礎石の位置が示してあります。

本丸は木が無いために開放的で明るいです。

(続く)

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。