大給城@愛知県豊田市 [お城踏査]
大給城@愛知県豊田市大内町にあった中世城郭です。
大給はおぎゅうと読みます。
本丸の石碑です。
逆光気味ですみません。
標高204メートルの城山に築かれていました。
比高でも130メートルもあります。
本丸の石垣です。
大給城は三河の中世城郭では珍しい石垣が多用されています。
石は小さめですし、高さもそれほどではありません。
城跡にある大給城の縄張り図です。
色付けされていてわかりやすいです。
虎口です。
複雑に折れています。
本丸から豊田市街を望むところです。
見晴は抜群です。
手前の岩は物見岩です。
物見岩です。
分かりにくいですが、岩に四角の穴が開けられています。
ここに旗を立てたとか、建物の跡とか言われますが、実際のところはわかりません。
他ではない遺構です。
本丸です。
大きな岩が露出しています。
大給城の城主松平乗元の墓です。
乗元は松平親忠の次男です。
二代乗正のときに大給城から細川城(岡崎市細川町)に進出しました。
大給松平氏は、18松平とも言われる松平氏支族の中でも最大級の家でした。
戦国期には松平宗家は今川氏に従いましたが、大給松平氏は織田氏と手を組み今川氏と戦っています。
大給城の水の手です。
天文21年の戦いで、今川義元が出した感状が残っています。
去月廿六日、於大給城北沢水手、被官石原藤二郎・蜂谷又一郎・加納甚三・松平彦一・小者藤若、敵三人討捕之云々、誠以神妙之至也、弥可励忠節者也、仍如件、
天文廿一年六月三日
義元(花押)
松平甚太郎殿
ここに出てくる大給城北沢水手というのが、ここの谷の部分です。
今もこの谷地形の中に二重の堰堤が残っています。
ここで激しい戦いがあったことがわかります。
大給城の堀切です。
大給城は三河の城では最大級で、石垣を多用して優れた縄張りです。
これは天文年間の戦いの結果もありますが、一番は徳川氏によって対武田氏の最前線の城として改修されたためでしょう。
大給松平氏は細川城に本拠を移していて、大給城は家康直轄の城として機能していたのでしょう。
足助城(豊田市足助町)まで武田氏は進出してきており、一時は家康の命は風前の灯火でした。
岡崎城防衛のための最前線として機能していたのでしょう。
大給はおぎゅうと読みます。
本丸の石碑です。
逆光気味ですみません。
標高204メートルの城山に築かれていました。
比高でも130メートルもあります。
本丸の石垣です。
大給城は三河の中世城郭では珍しい石垣が多用されています。
石は小さめですし、高さもそれほどではありません。
城跡にある大給城の縄張り図です。
色付けされていてわかりやすいです。
虎口です。
複雑に折れています。
本丸から豊田市街を望むところです。
見晴は抜群です。
手前の岩は物見岩です。
物見岩です。
分かりにくいですが、岩に四角の穴が開けられています。
ここに旗を立てたとか、建物の跡とか言われますが、実際のところはわかりません。
他ではない遺構です。
本丸です。
大きな岩が露出しています。
大給城の城主松平乗元の墓です。
乗元は松平親忠の次男です。
二代乗正のときに大給城から細川城(岡崎市細川町)に進出しました。
大給松平氏は、18松平とも言われる松平氏支族の中でも最大級の家でした。
戦国期には松平宗家は今川氏に従いましたが、大給松平氏は織田氏と手を組み今川氏と戦っています。
大給城の水の手です。
天文21年の戦いで、今川義元が出した感状が残っています。
去月廿六日、於大給城北沢水手、被官石原藤二郎・蜂谷又一郎・加納甚三・松平彦一・小者藤若、敵三人討捕之云々、誠以神妙之至也、弥可励忠節者也、仍如件、
天文廿一年六月三日
義元(花押)
松平甚太郎殿
ここに出てくる大給城北沢水手というのが、ここの谷の部分です。
今もこの谷地形の中に二重の堰堤が残っています。
ここで激しい戦いがあったことがわかります。
大給城の堀切です。
大給城は三河の城では最大級で、石垣を多用して優れた縄張りです。
これは天文年間の戦いの結果もありますが、一番は徳川氏によって対武田氏の最前線の城として改修されたためでしょう。
大給松平氏は細川城に本拠を移していて、大給城は家康直轄の城として機能していたのでしょう。
足助城(豊田市足助町)まで武田氏は進出してきており、一時は家康の命は風前の灯火でした。
岡崎城防衛のための最前線として機能していたのでしょう。