加賀爪甲斐守屋敷跡@静岡県磐田市 [お城踏査]
加賀爪甲斐守直澄屋敷跡は静岡県磐田市笠梅にありました。
説明によると、加賀爪甲斐守は、1万石の大名で、内6500石は遠江にあり、3500石は武蔵、相模にありました。
寛文元年に寺社奉行、同3年に3000石を加増されました。
しかし、延宝7年に嫡子直清に家督を譲りましたが、天明元年に所領境界論の処置不十分を理由に所領を没収されて断絶しました。
ただ、加賀爪氏は乱暴な旗本としても有名だったそうです。
屋敷跡は看板が立つのみで、遺構はありません。
ただの空き地や畑になっています。
屋敷跡はとても1万3000石の旗本の陣屋とは思えません。
門が近くの民家に移築されています。
説明によると、加賀爪甲斐守は、1万石の大名で、内6500石は遠江にあり、3500石は武蔵、相模にありました。
寛文元年に寺社奉行、同3年に3000石を加増されました。
しかし、延宝7年に嫡子直清に家督を譲りましたが、天明元年に所領境界論の処置不十分を理由に所領を没収されて断絶しました。
ただ、加賀爪氏は乱暴な旗本としても有名だったそうです。
屋敷跡は看板が立つのみで、遺構はありません。
ただの空き地や畑になっています。
屋敷跡はとても1万3000石の旗本の陣屋とは思えません。
門が近くの民家に移築されています。
久野城@静岡県袋井市 [お城踏査]
久野城は静岡県袋井市鷲巣にある近世城郭です。
大手橋からみた城跡です。
手前の川を渡ると橋が復元されています。
大手門にかかる櫓の跡です。
けっこう小さいものです。
説明板です。
縄張り図もついているので、分かりやすいです。
縄張り図のアップです。
この図面やさきほどの写真を見て、これで久野城は本当に近世城郭なの?
中世城郭ではないの?と疑問をもたれた方もみえると思います。
そうなんです。
久野城は一見中世城郭にしか見えません。
もともとは明応年間(1492-1501)に久野宗隆が築城しました。
その後天正18年に徳川家康が関東に移ると、松下之綱が入ります。
このとき、岡崎城は田中吉政、吉田城は池田輝政、浜松城は堀尾吉晴、掛川城は山内一豊など秀吉子飼いの家臣が入り、それぞれ城を石垣や天守をもつ城に改造しました。
しかし、久野城は石垣は築かれず天守も建てられませんでした。
だから一見中世城郭のように見えます。
しかし、発掘の結果虎口などは織豊期城郭の技術が使われていたことがわかっています。
本丸には大きな久野城とかかれた看板があります。
東名高速を走っていると、よく見ると北側にこの看板が見えます。
袋井近くを通ったら気をつけてみてください。
本丸の下にある井戸です。
とても深いので近寄れないように柵がしてあります。
井戸を上から覗いてみました。
素掘りの井戸です。
直径1.5メートルほどです。
中は水はなさそうでしたが、深そうです。
本丸跡です。
きれいに削平されています。
石垣や土塁はありません。
二の丸です。
公園化されていてきれいに整備されています。
大手には、発掘で確認された柵列が再現されています。
でも一見短い柱が並んでいるだけに見えて、一般の人にはわかりにくいでした。
もう少し塀などにして再現すればわかりやすいと感じました。
大手橋からみた城跡です。
手前の川を渡ると橋が復元されています。
大手門にかかる櫓の跡です。
けっこう小さいものです。
説明板です。
縄張り図もついているので、分かりやすいです。
縄張り図のアップです。
この図面やさきほどの写真を見て、これで久野城は本当に近世城郭なの?
中世城郭ではないの?と疑問をもたれた方もみえると思います。
そうなんです。
久野城は一見中世城郭にしか見えません。
もともとは明応年間(1492-1501)に久野宗隆が築城しました。
その後天正18年に徳川家康が関東に移ると、松下之綱が入ります。
このとき、岡崎城は田中吉政、吉田城は池田輝政、浜松城は堀尾吉晴、掛川城は山内一豊など秀吉子飼いの家臣が入り、それぞれ城を石垣や天守をもつ城に改造しました。
しかし、久野城は石垣は築かれず天守も建てられませんでした。
だから一見中世城郭のように見えます。
しかし、発掘の結果虎口などは織豊期城郭の技術が使われていたことがわかっています。
本丸には大きな久野城とかかれた看板があります。
東名高速を走っていると、よく見ると北側にこの看板が見えます。
袋井近くを通ったら気をつけてみてください。
本丸の下にある井戸です。
とても深いので近寄れないように柵がしてあります。
井戸を上から覗いてみました。
素掘りの井戸です。
直径1.5メートルほどです。
中は水はなさそうでしたが、深そうです。
本丸跡です。
きれいに削平されています。
石垣や土塁はありません。
二の丸です。
公園化されていてきれいに整備されています。
大手には、発掘で確認された柵列が再現されています。
でも一見短い柱が並んでいるだけに見えて、一般の人にはわかりにくいでした。
もう少し塀などにして再現すればわかりやすいと感じました。
油山寺 [寺院]
油山寺は静岡県袋井市村松にある真言宗智山派の寺院です。
境内図です。
山裾にあり、山に包まれるように堂宇が並びます。
遠州三山のひとつで、大きな寺院です。
掛川城の大手門が門となったり、横須賀城の御殿が移築されたのもわかります。
本堂は割りと新しい建築です。
本堂の天井です。
格天井で、中の一枚一枚に絵が描かれています。
境内には他に三重塔やるりの滝などもあります。
今回は移築された掛川城の大手門や横須賀城の書院の見学がメインでしたので、お寺の他の部分はじっくり見る時間がありませんでした。
油山寺そのものも見どころがたくさんなので、次回改めて来たいと思います。
最後に掛川城の大手門の写真をもう一度。
境内図です。
山裾にあり、山に包まれるように堂宇が並びます。
遠州三山のひとつで、大きな寺院です。
掛川城の大手門が門となったり、横須賀城の御殿が移築されたのもわかります。
本堂は割りと新しい建築です。
本堂の天井です。
格天井で、中の一枚一枚に絵が描かれています。
境内には他に三重塔やるりの滝などもあります。
今回は移築された掛川城の大手門や横須賀城の書院の見学がメインでしたので、お寺の他の部分はじっくり見る時間がありませんでした。
油山寺そのものも見どころがたくさんなので、次回改めて来たいと思います。
最後に掛川城の大手門の写真をもう一度。
横須賀城書院 [移築建物]
袋井市の油山寺には掛川市の横須賀城の書院も移築されています。
外観です。
お城の御殿ですが、大広間や玄関などの外向きの建物ではなく、書院なので城主の私的な空間のようです。
それは内装をみても感じます。
廊下です。
畳廊下の外にある廊下で、縁側みたいなものです。
普通の廊下です。
おまけにとても狭いです。
内部です。
三間続きです。
欄間です。
豪華な彫刻ではなく、落ち着いたものです。
筬欄間です。
筬は「おさ」と読みます。
床の間と違い棚があり、書院造りの格式のある部屋です。
天井は棹縁天井です。
格式のある部屋は升目状の格天井が多いのですが、私的空間だからでしょうか。
真ん中と北の部屋です。
中は明るい感じです。
畳廊下です。
このあたりの御殿の建物らしいです。
でも幅が一畳しかない狭いものです。
奥向きの建物だったのでしょうか。
御簾が御殿らしいです。
奥の部屋は茶室として使われています。
右が畳廊下です。
釘隠しです。
桃でしょうか。
この書院は、棟木の墨書に元禄12年とあります。
もともとは横須賀城の書院で、安政6年に城主の西尾隠岐守によって移築されました。
書院造りの形式をよく残す建物で、静岡県では掛川城の御殿と並ぶ貴重な建物です。
以前は非公開でしたが、近年は公開されるようになりました。
外観です。
お城の御殿ですが、大広間や玄関などの外向きの建物ではなく、書院なので城主の私的な空間のようです。
それは内装をみても感じます。
廊下です。
畳廊下の外にある廊下で、縁側みたいなものです。
普通の廊下です。
おまけにとても狭いです。
内部です。
三間続きです。
欄間です。
豪華な彫刻ではなく、落ち着いたものです。
筬欄間です。
筬は「おさ」と読みます。
床の間と違い棚があり、書院造りの格式のある部屋です。
天井は棹縁天井です。
格式のある部屋は升目状の格天井が多いのですが、私的空間だからでしょうか。
真ん中と北の部屋です。
中は明るい感じです。
畳廊下です。
このあたりの御殿の建物らしいです。
でも幅が一畳しかない狭いものです。
奥向きの建物だったのでしょうか。
御簾が御殿らしいです。
奥の部屋は茶室として使われています。
右が畳廊下です。
釘隠しです。
桃でしょうか。
この書院は、棟木の墨書に元禄12年とあります。
もともとは横須賀城の書院で、安政6年に城主の西尾隠岐守によって移築されました。
書院造りの形式をよく残す建物で、静岡県では掛川城の御殿と並ぶ貴重な建物です。
以前は非公開でしたが、近年は公開されるようになりました。