二つあった桶狭間古戦場 愛知県名古屋市緑区編 その2 [歴史雑話]

桶狭間古戦場 名古屋市編の続きです。

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古戦場周辺の地図です。

公園は怪しさ一杯ですが、周囲の史跡はそれなりに由緒があります。

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瀬名氏の陣所です。

瀬名氏の軍勢200名が陣を構えたと伝えられます。

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セナ薮と呼ばれていました。
正面の小山でしょうか。

東西15メートル、南北38メートルの規模だったそうです。

昭和61年の堤防工事によりほとんど取り壊されてしまったそうです。
現在は竹薮がわずかに残るだけです。

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石碑です。

瀬名伊予守氏俊陣と刻まれています。

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信長がこの近くで首実験を行い、首の処理を村人に命じました。

村人は7つの穴を50メートル間隔に掘って埋葬しました。

手厚く埋葬されましたが、区画整理によりここに集められました。

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七つ塚です。

住宅の庭先のような奥まった非常にわかりにくい場所にあります。

でも、付近には何箇所が表示が出ているので、だいたいこの付近とわかっていれば見つけ出すことはできます。

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おけはざま山です。

今回一番びっくりしたのはこの桶狭間山の表示です。

今川義元本陣とも記されています。

『信長公記』は「今川義元は4万5千引率し、おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」とあり、おけはざま山に休息していたことがわかります。

しかし、このおけはざま山の場所が不明でした。

碑の建っている場所は確かに高台ですが、上まで住宅が建ち、山という雰囲気は今はありません。

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説明です。

かつては現在より8メートル高い山でしたとありますが、そもそもここが本当におけはざま山という山だったという確証はありません。

現在は開発により地形も変わってしまっていますが、これほど有名な古戦場の山の名前が伝えられていないことも考えてみれば不思議なことです。

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戦評の松です。

瀬名伊予守が武将を集めて会議を開いた場所です。

今川義元ではないところがみそです。

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碑です。

松は枯れてしまったので、現在は二代目が植えられています。

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長福寺です。

お寺は碑の奥です。

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同じく桶狭間古戦場由緒地の碑です。

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首検証跡です。
長福寺境内の杉の木の下にあります。

今川氏の林阿弥が織田氏に捕らえられて今川軍の首実験をしたといわれています。

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長福寺の弁天池です。

刀濯ぎの池とも言われています。
この池で武将が血で汚れた刀を洗ったといわれます。

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長福寺の供養塔です。
こちらは最近のものです。

長福寺には今川義元と松井宗信の像もあります。

このように名古屋市緑区の古戦場もいろいろと合戦に関係する史跡があります。


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桶狭間古戦場を巡った後で、名古屋駅の矢場とんでわらじかつ定食を食べました。

カツがわらじのように大きくて美味しかった。

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