名古屋城の石垣 [石垣]
名古屋城の石垣です。
天守台の石垣です。
石がひび割れています。
戦災で焼失したためです。
天守台の石垣です。
扇の勾配が美しいです。
天守台は加藤清正が単独で作りました。
名古屋城の石垣の石にはよく見るとマークが彫られているものがあります。
これは刻印です。
名古屋城は天下普請のため、全国の大名家(主に外様大名)に分担させて石垣を築かせました。
各大名家は、隣りの大名と石が混ざって混乱しないように石垣の石に自分の家紋などのマークを彫りました。
この刻印を探してみるのも面白いですね。
本丸裏門の石垣です。
隅はきれいな算木積みになっています。
天守台の石垣です。
石がひび割れています。
戦災で焼失したためです。
天守台の石垣です。
扇の勾配が美しいです。
天守台は加藤清正が単独で作りました。
名古屋城の石垣の石にはよく見るとマークが彫られているものがあります。
これは刻印です。
名古屋城は天下普請のため、全国の大名家(主に外様大名)に分担させて石垣を築かせました。
各大名家は、隣りの大名と石が混ざって混乱しないように石垣の石に自分の家紋などのマークを彫りました。
この刻印を探してみるのも面白いですね。
本丸裏門の石垣です。
隅はきれいな算木積みになっています。
名古屋城本丸御殿の復元工事の近況27年5月下旬 [名古屋城本丸御殿]
名古屋城本丸御殿の復元工事の近況です。
台所の屋根です。
破風の庇の部分です。
屋根工事が進んでいました。
手前が台所、奥が孔雀の間です。
対面所の屋根工事が始まっていました。
杮葺きの工事です。
屋根職員が杮を一枚一枚打ち付けて行きます。
釘を使わず、竹釘で打ち込んでいきます。
竹釘は口に含んで取り出しながら打って行きます。
こんな感じに並んで打ち付けていきます。
この日は6人で工事を行っていました。
対面所の屋根は下半分ほど杮が葺かれていました。
この日は本丸御殿の現場見学会も開催されました。
現場入口です。
入口で本丸御殿の図面が資料として貰えます。
この日限定なので、ある意味レアです。
普段は入れない現場近くで見学できます。
年間2回ほど開催されます。
空いていました。
次回は休日に開催して欲しいですね。
床下格子枠です。
さらにこの枠の中に格子を嵌めて行きます。
床下を見ると金属の金具が見えます。
電気系統の配線でしょうか?
対面所付近です。
見学は外からでしたが、年に一度くらいは建物の中に入って見学して見たいです。
外からだけだと、中の造作が分かりにくいです。
同じく対面所付近です。
壁はまだ粗壁のようです。
床下の構造です。
足固貫、大引、床束、地覆です。
まだ天井は張られていないので、太い梁が見えます。
この景観が見られるのも今だけです。
床下の壁です。
まだ塗られていないので竹小舞が見えます。
隣りは壁貫です。
台所付近の設計図です。
大きいので図面と比較しないとどこの部分なのかわかりません。
台所付近の床です。
床はまだ張られておらず、木材にたくさんのほぞ穴が見えます。
台所の屋根です。
破風の庇の部分です。
屋根工事が進んでいました。
手前が台所、奥が孔雀の間です。
対面所の屋根工事が始まっていました。
杮葺きの工事です。
屋根職員が杮を一枚一枚打ち付けて行きます。
釘を使わず、竹釘で打ち込んでいきます。
竹釘は口に含んで取り出しながら打って行きます。
こんな感じに並んで打ち付けていきます。
この日は6人で工事を行っていました。
対面所の屋根は下半分ほど杮が葺かれていました。
この日は本丸御殿の現場見学会も開催されました。
現場入口です。
入口で本丸御殿の図面が資料として貰えます。
この日限定なので、ある意味レアです。
普段は入れない現場近くで見学できます。
年間2回ほど開催されます。
空いていました。
次回は休日に開催して欲しいですね。
床下格子枠です。
さらにこの枠の中に格子を嵌めて行きます。
床下を見ると金属の金具が見えます。
電気系統の配線でしょうか?
対面所付近です。
見学は外からでしたが、年に一度くらいは建物の中に入って見学して見たいです。
外からだけだと、中の造作が分かりにくいです。
同じく対面所付近です。
壁はまだ粗壁のようです。
床下の構造です。
足固貫、大引、床束、地覆です。
まだ天井は張られていないので、太い梁が見えます。
この景観が見られるのも今だけです。
床下の壁です。
まだ塗られていないので竹小舞が見えます。
隣りは壁貫です。
台所付近の設計図です。
大きいので図面と比較しないとどこの部分なのかわかりません。
台所付近の床です。
床はまだ張られておらず、木材にたくさんのほぞ穴が見えます。
第58回1617会大阪・天満例会「天満地域の形成と展開」 [お城情報]
お城のイベントの案内です。
少し専門的なものです。
より深く勉強したいかたはどうぞ。
1617(いちろくいちなな)会は考古学・文献史学・建築史学・歴史地理学など、複数の分野の研究者が集い、16世紀以前(中世)と17世紀以降(近世)の特定の地域(都市的な場)を対象に、学際的に研究を深めることを目的とした研究会です。
3ヶ月に1回程度のペースで開催しています。
今回は、大阪の天満をとりあげます。天満は大阪の上町台地の北に位置し、淀川河口部の三角州上に立地しています。
天満の由来となったのは11世紀には成立していた“天満天神”(現大阪天満宮)の存在です。天満宮は天満のなかでも微高地に立地し、古代の直線道路(「長柄道」)に接するように境内地を構えており、その門前には町場をもつ天満きっての宗教権門でした。
しかしながら、この地域を天満と称するようになったのは大坂城下町の成立以降で、12世紀段階では大川南岸に中心地のあった渡辺(津)に包括され、室町時代では中島、あるいは南中島と呼ばれる歴史をたどってきました。
天満は天正11年(1583)、豊臣秀吉の大坂城下町建設のなかで大きな画期を迎えます。
城下町の北端を示す寺町が設定され、同13年には本願寺が貝塚から誘致され寺内町建設を通して城下町建設の一翼を担うことになります。
この時期は寺内町が統一権力による支配を受け変質していく時期にあたるので、天満寺内町の動向は都市研究のなかでも注目されるべきものです。
その本願寺の所在地については長らく滝川公園説(興正寺跡)と造幣局説が唱えられてきました。
これについては、近年天満地域での考古学的知見が増え、造幣局説が優勢な状況となってきました。
加えて、中世以降の天満地域の歴史的展開を考えるデータも増えてきています。
天満は大坂城下町の一角を構成しながら、天満宮や天満寺内町、寺町の存在等を介して近世城下町の形成過程を照射できる貴重なフィールドなのです。
今回の研究会では、文献史学、考古学の最新の研究動向を踏まえ、天満が中世から近世初頭にかけてどのように変容し近世城下町として再生していったのかを総合的に検討します。
見学会では報告・討論内容にかかわる場所、特に本願寺の所在地と推定される造幣局付近を重点的に回ります。
多数のみなさんのご参加をお待ちしています。
第58回1617会大阪・天満例会「天満地域の形成と展開」
日 時 2015年5月31日(日) 13時00分~
場 所 大阪歴史博物館 (大阪市中央区大手前4-1-32 )
定 員 100名(不要申込)
参加費 資料代
内 容
◎見学会 10:00~12:00
・集合:大阪市営地下鉄「谷町線」 天満橋駅 北改札前
【コース】
天満橋駅→OMMビル→造幣局(本願寺跡)→泉布観→堤防跡→天満寺町→天神橋筋商店街(「長柄道」)→大阪天満宮→滝川公園(興正寺跡)→天満橋駅 昼食解散
◎シンポジウム 13:00~16:45
「天満の立地環境と歴史的展開」大澤 研一氏(文献史学:大阪歴史博物館)
「中島天満本願寺にみる戦国寺内町の終焉」・鍛代 敏雄氏(文献史学:東北福祉大学)
「天満寺内町の考古学的調査と研究」・南 秀雄氏(考古学:大阪文化財研究所)
15:00~15:10 休憩
15:10~16:45 全体討論
司会:松尾信裕・仁木宏
少し専門的なものです。
より深く勉強したいかたはどうぞ。
1617(いちろくいちなな)会は考古学・文献史学・建築史学・歴史地理学など、複数の分野の研究者が集い、16世紀以前(中世)と17世紀以降(近世)の特定の地域(都市的な場)を対象に、学際的に研究を深めることを目的とした研究会です。
3ヶ月に1回程度のペースで開催しています。
今回は、大阪の天満をとりあげます。天満は大阪の上町台地の北に位置し、淀川河口部の三角州上に立地しています。
天満の由来となったのは11世紀には成立していた“天満天神”(現大阪天満宮)の存在です。天満宮は天満のなかでも微高地に立地し、古代の直線道路(「長柄道」)に接するように境内地を構えており、その門前には町場をもつ天満きっての宗教権門でした。
しかしながら、この地域を天満と称するようになったのは大坂城下町の成立以降で、12世紀段階では大川南岸に中心地のあった渡辺(津)に包括され、室町時代では中島、あるいは南中島と呼ばれる歴史をたどってきました。
天満は天正11年(1583)、豊臣秀吉の大坂城下町建設のなかで大きな画期を迎えます。
城下町の北端を示す寺町が設定され、同13年には本願寺が貝塚から誘致され寺内町建設を通して城下町建設の一翼を担うことになります。
この時期は寺内町が統一権力による支配を受け変質していく時期にあたるので、天満寺内町の動向は都市研究のなかでも注目されるべきものです。
その本願寺の所在地については長らく滝川公園説(興正寺跡)と造幣局説が唱えられてきました。
これについては、近年天満地域での考古学的知見が増え、造幣局説が優勢な状況となってきました。
加えて、中世以降の天満地域の歴史的展開を考えるデータも増えてきています。
天満は大坂城下町の一角を構成しながら、天満宮や天満寺内町、寺町の存在等を介して近世城下町の形成過程を照射できる貴重なフィールドなのです。
今回の研究会では、文献史学、考古学の最新の研究動向を踏まえ、天満が中世から近世初頭にかけてどのように変容し近世城下町として再生していったのかを総合的に検討します。
見学会では報告・討論内容にかかわる場所、特に本願寺の所在地と推定される造幣局付近を重点的に回ります。
多数のみなさんのご参加をお待ちしています。
第58回1617会大阪・天満例会「天満地域の形成と展開」
日 時 2015年5月31日(日) 13時00分~
場 所 大阪歴史博物館 (大阪市中央区大手前4-1-32 )
定 員 100名(不要申込)
参加費 資料代
内 容
◎見学会 10:00~12:00
・集合:大阪市営地下鉄「谷町線」 天満橋駅 北改札前
【コース】
天満橋駅→OMMビル→造幣局(本願寺跡)→泉布観→堤防跡→天満寺町→天神橋筋商店街(「長柄道」)→大阪天満宮→滝川公園(興正寺跡)→天満橋駅 昼食解散
◎シンポジウム 13:00~16:45
「天満の立地環境と歴史的展開」大澤 研一氏(文献史学:大阪歴史博物館)
「中島天満本願寺にみる戦国寺内町の終焉」・鍛代 敏雄氏(文献史学:東北福祉大学)
「天満寺内町の考古学的調査と研究」・南 秀雄氏(考古学:大阪文化財研究所)
15:00~15:10 休憩
15:10~16:45 全体討論
司会:松尾信裕・仁木宏
奥殿陣屋@愛知県岡崎市 その2 [お城踏査]
奥殿陣屋の続編です。
金鳳亭です。
書院の奥にある食事所です。
古図を参考に建てられたそうです。
古建築の様子はあまりうかがえませんでした。
奥殿陣屋の堀です。
陣屋は山裾に作られています。
山に対して堀が巡らされています。
幅2mほどと狭いです。
防備のためというよりは、結界などの目的でしょうか。
中腹には大給松平氏の墓所があります。
墓所です。
初代真次から歴代の墓所です。
多くの墓石が建ち並んでいます。
新しい形態の墓が多いです。
七神宮です。
陣屋の守り神です。
隣にある花のガーデンです。
季節のいろいろな花が咲いています。
岡崎といえばこれですね。
ゆるくないゆるキャラ
オカザえもんです。
金鳳亭です。
書院の奥にある食事所です。
古図を参考に建てられたそうです。
古建築の様子はあまりうかがえませんでした。
奥殿陣屋の堀です。
陣屋は山裾に作られています。
山に対して堀が巡らされています。
幅2mほどと狭いです。
防備のためというよりは、結界などの目的でしょうか。
中腹には大給松平氏の墓所があります。
墓所です。
初代真次から歴代の墓所です。
多くの墓石が建ち並んでいます。
新しい形態の墓が多いです。
七神宮です。
陣屋の守り神です。
隣にある花のガーデンです。
季節のいろいろな花が咲いています。
岡崎といえばこれですね。
ゆるくないゆるキャラ
オカザえもんです。
奥殿陣屋@愛知県岡崎市 その1 [お城踏査]
奥殿陣屋は愛知県岡崎市奥殿町にあった近世の陣屋です。
入口です。
公園化されていて陣屋の雰囲気はありません。
奥殿陣屋は徳川家康の親戚である大給松平氏の分家の陣屋です。
資料館にある陣屋の図です。
表御殿、書院、地方役所、学問所、道場など33棟の建物が並ぶ大きな陣屋でした。
陣屋の絵図です。
陣屋なので、堀や石垣、天守などはありませんでした。
こういう絵だとイメージが湧きますね。
陣屋の入口の門です。
模擬門です。
陣屋の建物は明治になると解体されました。
一部は近くの龍渓院の庫裏として使われていましたが、陣屋跡に再移築されました。
桟瓦葺き切妻式です。
陣屋らしく広い畳廊下です。
さすが広いです。
内部の柱です。
移築の跡を示す埋め木です。
床の間です。
移築を繰り返しているために、どこまで陣屋本来の間取りを残しているか不明です。
鮮やかな襖絵です。
もちろん当時のものではありません。
庭園も造られています。
こちらの景観整備して作られ、どこまで陣屋本来の庭園かは不明です。
周囲には菖蒲園が作られたりして、今は史跡というよりも観光施設として使われています。
入口です。
公園化されていて陣屋の雰囲気はありません。
奥殿陣屋は徳川家康の親戚である大給松平氏の分家の陣屋です。
資料館にある陣屋の図です。
表御殿、書院、地方役所、学問所、道場など33棟の建物が並ぶ大きな陣屋でした。
陣屋の絵図です。
陣屋なので、堀や石垣、天守などはありませんでした。
こういう絵だとイメージが湧きますね。
陣屋の入口の門です。
模擬門です。
陣屋の建物は明治になると解体されました。
一部は近くの龍渓院の庫裏として使われていましたが、陣屋跡に再移築されました。
桟瓦葺き切妻式です。
陣屋らしく広い畳廊下です。
さすが広いです。
内部の柱です。
移築の跡を示す埋め木です。
床の間です。
移築を繰り返しているために、どこまで陣屋本来の間取りを残しているか不明です。
鮮やかな襖絵です。
もちろん当時のものではありません。
庭園も造られています。
こちらの景観整備して作られ、どこまで陣屋本来の庭園かは不明です。
周囲には菖蒲園が作られたりして、今は史跡というよりも観光施設として使われています。