西郡陣屋の大手門 [移築建物]
愛知県蒲郡市にあった西郡陣屋の門です。
大手門と言われます。
蒲郡市博物館に移築されています。
西郡陣屋は蒲形城の跡に建てられた陣屋で、竹谷松平氏が5000石を領していました。
竹谷松平氏は十四松平氏の一つで、徳川家康の親戚に当たります。
三代松平信光の子の守家が初代です。
蒲郡市竹谷町の竹谷城を拠点としていました。
守親-親善-清善-清宗ー家清-忠清と続きました。
忠清は慶長17年(1612)28歳で跡継ぎがないまま死去したため、一旦断絶します。
その後忠清の弟の清昌が5000石を後を継ぎました。
子の家が西郡陣屋となります。
竹谷松平氏は交代寄合衆として明治維新を迎えました。
裏側です。
本瓦葺き、切妻造りの両袖付き高麗門です。
陣屋らしい風格があります。
文化15年(1818)に建てられましたが、明治に御津町の民家に移築されました。
平成3年に現在地に再移築されました。
大手門と言われます。
蒲郡市博物館に移築されています。
西郡陣屋は蒲形城の跡に建てられた陣屋で、竹谷松平氏が5000石を領していました。
竹谷松平氏は十四松平氏の一つで、徳川家康の親戚に当たります。
三代松平信光の子の守家が初代です。
蒲郡市竹谷町の竹谷城を拠点としていました。
守親-親善-清善-清宗ー家清-忠清と続きました。
忠清は慶長17年(1612)28歳で跡継ぎがないまま死去したため、一旦断絶します。
その後忠清の弟の清昌が5000石を後を継ぎました。
子の家が西郡陣屋となります。
竹谷松平氏は交代寄合衆として明治維新を迎えました。
裏側です。
本瓦葺き、切妻造りの両袖付き高麗門です。
陣屋らしい風格があります。
文化15年(1818)に建てられましたが、明治に御津町の民家に移築されました。
平成3年に現在地に再移築されました。
宇田津砦@愛知県小牧市 [お城踏査]
宇田津砦は愛知県小牧市北外山にありました。
宇田津は歌津とも書かれました。
石碑です。
この砦は住友理工という工場の中にあるので、守衛さんにお願いして中を見せてもらいました。
名前を書いて入館します。
工場が休みの日には入れません。
工場の一角に神社が祀られていて、その付近に石碑があります。
赤い鳥居なので稲荷神社でしょうか。
神社は工場が出来る前からあったようです。
説明です。
小牧市が建てたものではなく、古さを感じます。
宇田津砦も小牧・長久手合戦時の徳川氏の砦でした。
鞍作りの名工が住んでいた場所に築かれました。
総構え2丁四方の砦でした。
西小牧城・東田楽の砦とともに秀吉軍の二重堀砦に備えました。
池があって、砦の堀の遺構かなと思いましたが、神社や庭園に伴うもののようです。
特に目立った遺構はなく、石碑のみでした。
しかし、神社があるため広場となっていて、工場の中にありながら、静かな場所でした。
宇田津は歌津とも書かれました。
石碑です。
この砦は住友理工という工場の中にあるので、守衛さんにお願いして中を見せてもらいました。
名前を書いて入館します。
工場が休みの日には入れません。
工場の一角に神社が祀られていて、その付近に石碑があります。
赤い鳥居なので稲荷神社でしょうか。
神社は工場が出来る前からあったようです。
説明です。
小牧市が建てたものではなく、古さを感じます。
宇田津砦も小牧・長久手合戦時の徳川氏の砦でした。
鞍作りの名工が住んでいた場所に築かれました。
総構え2丁四方の砦でした。
西小牧城・東田楽の砦とともに秀吉軍の二重堀砦に備えました。
池があって、砦の堀の遺構かなと思いましたが、神社や庭園に伴うもののようです。
特に目立った遺構はなく、石碑のみでした。
しかし、神社があるため広場となっていて、工場の中にありながら、静かな場所でした。
北外山砦@愛知県小牧市 [お城踏査]
北外山砦は愛知県小牧市にあった砦です。
蟹清水砦と同じく小牧・長久手合戦の砦です。
石碑です。
石碑には「北外山城跡」と刻まれています。
かつてはここより50mほど離れた民家の庭にありました。
そうするとここは城跡ではない?
城嶋稲荷が今はあります。
でも矢鱈と新しそうです。
城嶋稲荷移転記念の碑です。
そうするとこの稲荷社も移転されてきたのでしょうか。
説明板です。
平成25年に建てられたものです。
新しいものです。
神社や碑の移転に伴って建てられたのでしょうか。
それによると、北外山砦は、廃城となっていた織田與四郎の居城を徳川家康が改修した砦です。
このあたりの経緯は、蟹清水砦とまったく同じですね。
本田忠勝、松平家忠らが守備しました。
東西27間、南北20間の規模でした。
そう大きな砦ではありませんね。
四方に高さ1間の土塁がありました。
かつては土塁の一部が残っていたようですが、現在は宅地化により消滅してしまいました。
ただ、城前、城嶋という地名のみが当時を偲ばせます。
蟹清水砦と同じく小牧・長久手合戦の砦です。
石碑です。
石碑には「北外山城跡」と刻まれています。
かつてはここより50mほど離れた民家の庭にありました。
そうするとここは城跡ではない?
城嶋稲荷が今はあります。
でも矢鱈と新しそうです。
城嶋稲荷移転記念の碑です。
そうするとこの稲荷社も移転されてきたのでしょうか。
説明板です。
平成25年に建てられたものです。
新しいものです。
神社や碑の移転に伴って建てられたのでしょうか。
それによると、北外山砦は、廃城となっていた織田與四郎の居城を徳川家康が改修した砦です。
このあたりの経緯は、蟹清水砦とまったく同じですね。
本田忠勝、松平家忠らが守備しました。
東西27間、南北20間の規模でした。
そう大きな砦ではありませんね。
四方に高さ1間の土塁がありました。
かつては土塁の一部が残っていたようですが、現在は宅地化により消滅してしまいました。
ただ、城前、城嶋という地名のみが当時を偲ばせます。
蟹清水砦@愛知県小牧市 [お城踏査]
蟹清水砦は愛知県小牧市小牧にあった砦です。
石碑です。
昭和62年に建てられました。
小牧・長久手合戦のときの砦です。
説明です。
もともとは織田信長の小牧山築城の際には丹羽長秀の屋敷があった場所です。
小牧・長久手合戦の際には、徳川家康は、この屋敷を改修して砦として、北外山砦、歌津砦を結んで防備を固めました。
砦の規模は東西46間、南北61間と伝えられます。
昭和20年頃までは堀が残っていたようです。
江戸時代には小牧御殿の一角となり、庭園の一部になっていました。
地名のように清水が湧き、蟹がいたのでしょうか。
現在は遺構は全くありません。
蟹清水砦の碑より道路を挟んだ反対側に小牧御殿の碑があります。
この一画は小さな神社となっています。
神社といっても小さな祠があるのみです。
御殿竜神の旗があります。
江戸時代には尾張藩主の御殿が建てられていました。
小牧御殿竜神の碑です。
小牧御殿も遺構はありません。
石碑です。
昭和62年に建てられました。
小牧・長久手合戦のときの砦です。
説明です。
もともとは織田信長の小牧山築城の際には丹羽長秀の屋敷があった場所です。
小牧・長久手合戦の際には、徳川家康は、この屋敷を改修して砦として、北外山砦、歌津砦を結んで防備を固めました。
砦の規模は東西46間、南北61間と伝えられます。
昭和20年頃までは堀が残っていたようです。
江戸時代には小牧御殿の一角となり、庭園の一部になっていました。
地名のように清水が湧き、蟹がいたのでしょうか。
現在は遺構は全くありません。
蟹清水砦の碑より道路を挟んだ反対側に小牧御殿の碑があります。
この一画は小さな神社となっています。
神社といっても小さな祠があるのみです。
御殿竜神の旗があります。
江戸時代には尾張藩主の御殿が建てられていました。
小牧御殿竜神の碑です。
小牧御殿も遺構はありません。