名古屋城本丸御殿の復元工事の近況27年5月上旬 [名古屋城本丸御殿]
名古屋城本丸御殿の復元工事の近況です。
手前は台所、奥の屋根は孔雀の間です。
台所の小屋組みが進んできました。
台所のアップです。
連休中は工事は休みになります。
孔雀の間の屋根部分です。
屋根の破風のカーブの作り出しています。
孔雀の間から見た台所です。
台所の完成予想図です。
左が孔雀の間、右が台所です。
台所には一部に瓦が載ります。
後ろには小天守が見えます。
左は対面所、中央は梅の間です。
その奥に上洛殿の足場が見えます。
対面所と下御膳所の屋根の接続部分です。
カーブが調整中でした。
本丸御殿の平面図です。
左上が小天守です。
玄関は右下です。
西北隅櫓も特別公開していました。
清洲城の天守を移築した櫓です。
名古屋城本丸御殿の今年の工程が発表されました。
4-6月
下御膳所、対面所は、造作工事、壁左官工事、屋根工事を行います。
孔雀之間、梅之間は、壁左官工事、屋根工事を行います。
上台所は、建方、屋根工事を行います。
7-9月
下御膳所、対面所、孔雀之間、梅之間、上台所は、造作工事、壁左官工事、屋根工事を行います。
10-12月
下御膳所、対面所、孔雀之間、梅之間、上台所は、造作工事、壁左官工事を行います。
素屋根を一部撤去し、外観が見えてきます。
1-3月
下御膳所、対面所、孔雀之間、梅之間は、最終仕上げや装飾が取付けられ、2期工事範囲が完成いたします。
秋には素屋根の一部が撤去されて外観が見えるようです。
そしていよいよ3月には第2期工事が完成します。
楽しみです。
手前は台所、奥の屋根は孔雀の間です。
台所の小屋組みが進んできました。
台所のアップです。
連休中は工事は休みになります。
孔雀の間の屋根部分です。
屋根の破風のカーブの作り出しています。
孔雀の間から見た台所です。
台所の完成予想図です。
左が孔雀の間、右が台所です。
台所には一部に瓦が載ります。
後ろには小天守が見えます。
左は対面所、中央は梅の間です。
その奥に上洛殿の足場が見えます。
対面所と下御膳所の屋根の接続部分です。
カーブが調整中でした。
本丸御殿の平面図です。
左上が小天守です。
玄関は右下です。
西北隅櫓も特別公開していました。
清洲城の天守を移築した櫓です。
名古屋城本丸御殿の今年の工程が発表されました。
4-6月
下御膳所、対面所は、造作工事、壁左官工事、屋根工事を行います。
孔雀之間、梅之間は、壁左官工事、屋根工事を行います。
上台所は、建方、屋根工事を行います。
7-9月
下御膳所、対面所、孔雀之間、梅之間、上台所は、造作工事、壁左官工事、屋根工事を行います。
10-12月
下御膳所、対面所、孔雀之間、梅之間、上台所は、造作工事、壁左官工事を行います。
素屋根を一部撤去し、外観が見えてきます。
1-3月
下御膳所、対面所、孔雀之間、梅之間は、最終仕上げや装飾が取付けられ、2期工事範囲が完成いたします。
秋には素屋根の一部が撤去されて外観が見えるようです。
そしていよいよ3月には第2期工事が完成します。
楽しみです。
馬伏塚城@静岡県袋井市 [お城踏査]
馬伏塚城は静岡県袋井市浅名にあった中世城郭です。
本丸です。
羽城といわれる付近から撮りました。
説明です。
馬伏塚城は、小笠原氏の居城でしたが、天正2年に高天神城を攻めるために徳川家康が改修しました。
マムシ塚城とも言われます。
マムシ(蝮)とは怖いですね。
浅野文庫絵図、測量図など図が豊富に使われてカラーで見やすい説明です。
馬伏塚城の構造図です。
南北600メートル、東西160メートルの細長い城でした。
左は伝居屋敷と言われ、小笠原氏の時代は集落と推定されます。
中央は北曲輪で2つの曲輪からなり、小笠原氏の時代の居館と推定されます。
右が徳川氏が築いた城の部分です。
徳川氏の築いた部分のアップです。
本丸、羽城、神曲輪、船入りがありました。
本丸の北の曲輪は馬出状です。
本丸に建つ石碑です。
本丸の土塁です。
一部が幅広になっていて、櫓台と推定されます。
今は神社の社殿が建てられています。
北曲輪です。
中は民家になっています。
伝居屋敷にある了教寺です。
この付近は民家となっています。
徳川氏の改修後は駐屯地と推定されます。
ところで、袋井市には徳川家康の高天神城攻めに関わる城が、馬伏塚城、十二所館、岡崎城と3つ伝えられます。
それぞれ特徴があり、在地の城ではないことはわかります。
しかし、縄張りに共通した特徴はありません。
十二所館は馬出、岡崎城は横矢掛、馬伏塚城は駐屯地の存在とばらばらです。
文献的に家康の改修が確かなものは馬伏塚城のみです。
ナゾは深まります。
本丸です。
羽城といわれる付近から撮りました。
説明です。
馬伏塚城は、小笠原氏の居城でしたが、天正2年に高天神城を攻めるために徳川家康が改修しました。
マムシ塚城とも言われます。
マムシ(蝮)とは怖いですね。
浅野文庫絵図、測量図など図が豊富に使われてカラーで見やすい説明です。
馬伏塚城の構造図です。
南北600メートル、東西160メートルの細長い城でした。
左は伝居屋敷と言われ、小笠原氏の時代は集落と推定されます。
中央は北曲輪で2つの曲輪からなり、小笠原氏の時代の居館と推定されます。
右が徳川氏が築いた城の部分です。
徳川氏の築いた部分のアップです。
本丸、羽城、神曲輪、船入りがありました。
本丸の北の曲輪は馬出状です。
本丸に建つ石碑です。
本丸の土塁です。
一部が幅広になっていて、櫓台と推定されます。
今は神社の社殿が建てられています。
北曲輪です。
中は民家になっています。
伝居屋敷にある了教寺です。
この付近は民家となっています。
徳川氏の改修後は駐屯地と推定されます。
ところで、袋井市には徳川家康の高天神城攻めに関わる城が、馬伏塚城、十二所館、岡崎城と3つ伝えられます。
それぞれ特徴があり、在地の城ではないことはわかります。
しかし、縄張りに共通した特徴はありません。
十二所館は馬出、岡崎城は横矢掛、馬伏塚城は駐屯地の存在とばらばらです。
文献的に家康の改修が確かなものは馬伏塚城のみです。
ナゾは深まります。