姫路城 その11 [お城踏査]
姫路城の続きです。
どこまで引っ張るんだと言われそうですが、姫路城はそれだけ見どころが一杯です。
今回でも通行制限のために、一般的な観光ルートで歩いています。
本来はもっと櫓や門があるのですが、涙を呑んで割愛しています。
やっと菱の門まで戻ってきました。
姫路城は大きいです。
ここまでで3時間以上はかかりました。
菱の門越しに見る天守です。
ゆるキャラと記念撮影です。
姫路城のゆるキャラ、官兵衛くんとしろひめまるです。
官兵衛くんはNHKの大河ドラマ軍師官兵衛を記念して作られました。
しろひめまるは頭の上に姫路城の天守が乗っています。
姫路城の入城者数は、3月27日のグランドオープン以来2ケ月あまりで50万人を越えました。
入場料は大人1000円なので単純計算しても5億円です。
姫路城の今回の改修工事費は24億円なので、このペースで行けば1年ほどで元がとれてしまう計算です。
すごい人気です。
りの渡櫓、ぬの門と天守です。
櫓と天守が重なるアングルはいいものです。
姫路城ではよく使われるアングルです。
西の丸のカの櫓です。
重箱型の二重櫓です。
変則的な櫓が多い姫路城では珍しい端正な櫓です。
(続く)
どこまで引っ張るんだと言われそうですが、姫路城はそれだけ見どころが一杯です。
今回でも通行制限のために、一般的な観光ルートで歩いています。
本来はもっと櫓や門があるのですが、涙を呑んで割愛しています。
やっと菱の門まで戻ってきました。
姫路城は大きいです。
ここまでで3時間以上はかかりました。
菱の門越しに見る天守です。
ゆるキャラと記念撮影です。
姫路城のゆるキャラ、官兵衛くんとしろひめまるです。
官兵衛くんはNHKの大河ドラマ軍師官兵衛を記念して作られました。
しろひめまるは頭の上に姫路城の天守が乗っています。
姫路城の入城者数は、3月27日のグランドオープン以来2ケ月あまりで50万人を越えました。
入場料は大人1000円なので単純計算しても5億円です。
姫路城の今回の改修工事費は24億円なので、このペースで行けば1年ほどで元がとれてしまう計算です。
すごい人気です。
りの渡櫓、ぬの門と天守です。
櫓と天守が重なるアングルはいいものです。
姫路城ではよく使われるアングルです。
西の丸のカの櫓です。
重箱型の二重櫓です。
変則的な櫓が多い姫路城では珍しい端正な櫓です。
(続く)
姫路城 その10 [お城踏査]
姫路城の続きです。
ぬの門を出るとすぐ前に高石垣が聳えています。
扇の勾配が美しいです。
備前曲輪の御対面所の石垣です。
ぬの門を出るとすぐ下にるの門があります。
この門は石垣の中に折れ曲がりながら階段通路を作っている特殊な門です。
埋門となっています。
上から見たるの門です。
有事の際には土砂を入れて封鎖することも出来ます。
ぬの門を出た先は一種の馬出になっています。
るの門とをの門で外部に開放しています。
るの門を通ると菱の門に通じ、をの門を通るとろの門に通じます。
をの門は現存しません。
その間に三国堀があります。
三国堀越しに見る西の丸化粧櫓です。
二の丸から見たはの門とにの門とろの櫓です。
ろの門です。
内部は枡形になっています。
三国堀越しに見る天守です。
三国堀は本丸と西の丸を隔てる中央に掘られた堀です。
この堀のおかげで縄張りにメリハリがついています。
三国堀の中央あたりに石垣を積み直した跡が見られます。
何度か縄張りが変更されたことがわかります。
石垣を注意深く見るといろいろと発見があります。
(続く)
ぬの門を出るとすぐ前に高石垣が聳えています。
扇の勾配が美しいです。
備前曲輪の御対面所の石垣です。
ぬの門を出るとすぐ下にるの門があります。
この門は石垣の中に折れ曲がりながら階段通路を作っている特殊な門です。
埋門となっています。
上から見たるの門です。
有事の際には土砂を入れて封鎖することも出来ます。
ぬの門を出た先は一種の馬出になっています。
るの門とをの門で外部に開放しています。
るの門を通ると菱の門に通じ、をの門を通るとろの門に通じます。
をの門は現存しません。
その間に三国堀があります。
三国堀越しに見る西の丸化粧櫓です。
二の丸から見たはの門とにの門とろの櫓です。
ろの門です。
内部は枡形になっています。
三国堀越しに見る天守です。
三国堀は本丸と西の丸を隔てる中央に掘られた堀です。
この堀のおかげで縄張りにメリハリがついています。
三国堀の中央あたりに石垣を積み直した跡が見られます。
何度か縄張りが変更されたことがわかります。
石垣を注意深く見るといろいろと発見があります。
(続く)
姫路城 その9 [お城踏査]
まだまだ続きます姫路城。
りの門を出ると上山里曲輪です。
山里曲輪から見た天守です。
手前の石垣は備前丸の石垣です。
かつてはこの石垣の上にも櫓が建ち並んでいましたが、明治15年の失火で焼失してしまいました。
右下にコンクリートの柱で囲まれた枠がありますが、これがお菊井戸です。
播州皿屋敷の怪談の井戸です。
皿を数えるお菊の亡霊で有名です。
上山里曲輪のちの櫓とりの一渡櫓です。
上記に続くりの二渡櫓とぬの門です。
櫓は4つの櫓が連結していて、複雑な形をしています。
りの一渡櫓のなかには姫路城天守の歴代の鯱が飾られています。
鯱は瓦なので消耗品であり、修理のたびに新しいものに取り替えられています。
明治の鯱と昭和の鯱です。
ぬの門です。
門の上に二重の渡櫓が乗っています。
二重の渡櫓門で現存するのは姫路城だけです。
また、二重の渡櫓門は金沢城など限られた大城郭にしかありませんでした。
ぬの門とりの一渡櫓の接続部です。
階段を登って櫓に入るようになっています。
内部は非公開です。
ぬの門と天守のコラボです。
石垣は備前曲輪の石垣です。
正面から見たぬの門です。
二重になっています。
上層階は出格子窓で正面を飾っています。
下層は鉄格子窓や石落しを備えています。
少し引いて見たぬの門です。
門の前は石垣を曲げて枡形になっています。
石垣の陰となり、外からは見えにくい門となっています。
大きな門にもかかわらず、隠すような配置になっているのは、この門のルートが本来の大手筋ではないためです。
下から見上げたちの櫓、りの二渡櫓です。
石落しが連続して作られています。
石垣もかなりの高さです。
りの一渡櫓です。
コーナーにある石落しが効果的な位置にあることがよくわかります。
ぬの門からりの櫓までの一連の建物は地味ですが、姫路城の中でも好きなスポットです。
(続く)
りの門を出ると上山里曲輪です。
山里曲輪から見た天守です。
手前の石垣は備前丸の石垣です。
かつてはこの石垣の上にも櫓が建ち並んでいましたが、明治15年の失火で焼失してしまいました。
右下にコンクリートの柱で囲まれた枠がありますが、これがお菊井戸です。
播州皿屋敷の怪談の井戸です。
皿を数えるお菊の亡霊で有名です。
上山里曲輪のちの櫓とりの一渡櫓です。
上記に続くりの二渡櫓とぬの門です。
櫓は4つの櫓が連結していて、複雑な形をしています。
りの一渡櫓のなかには姫路城天守の歴代の鯱が飾られています。
鯱は瓦なので消耗品であり、修理のたびに新しいものに取り替えられています。
明治の鯱と昭和の鯱です。
ぬの門です。
門の上に二重の渡櫓が乗っています。
二重の渡櫓門で現存するのは姫路城だけです。
また、二重の渡櫓門は金沢城など限られた大城郭にしかありませんでした。
ぬの門とりの一渡櫓の接続部です。
階段を登って櫓に入るようになっています。
内部は非公開です。
ぬの門と天守のコラボです。
石垣は備前曲輪の石垣です。
正面から見たぬの門です。
二重になっています。
上層階は出格子窓で正面を飾っています。
下層は鉄格子窓や石落しを備えています。
少し引いて見たぬの門です。
門の前は石垣を曲げて枡形になっています。
石垣の陰となり、外からは見えにくい門となっています。
大きな門にもかかわらず、隠すような配置になっているのは、この門のルートが本来の大手筋ではないためです。
下から見上げたちの櫓、りの二渡櫓です。
石落しが連続して作られています。
石垣もかなりの高さです。
りの一渡櫓です。
コーナーにある石落しが効果的な位置にあることがよくわかります。
ぬの門からりの櫓までの一連の建物は地味ですが、姫路城の中でも好きなスポットです。
(続く)
姫路城 その8 [お城踏査]
姫路城の続きです。
まだまだ続きます。
備前門から見た太鼓櫓です。
左は帯の櫓です。
帯の櫓です。
この櫓は非公開ですが、コの字形をした櫓です。
姫路城には珍しく柱を露出した壁になっています。
内部は茶室になっているそうです。
櫓でありながら数奇屋風になっています。
この石垣の穴を抜けると井戸曲輪に降りられます。
今は非公開になっています。
今回の天守の公開で多くの観光客が来て、混雑するために見学ルートはかなり制限されています。
以前に入れた井戸曲輪も今は入れません。
ブームが落ち着けば、また見学できるようになると思いますが。
井戸曲輪は通称切腹丸と言われていました。
袋小路の縄張りからそのような名前が付けられましたが、史実ではありません。
への櫓です。
通称太鼓櫓です。
りの門です。
内側からの写真です。
太鼓櫓(への櫓)とりの門(左)です。
太鼓櫓は中に太鼓が置かれていました。
(続く)
まだまだ続きます。
備前門から見た太鼓櫓です。
左は帯の櫓です。
帯の櫓です。
この櫓は非公開ですが、コの字形をした櫓です。
姫路城には珍しく柱を露出した壁になっています。
内部は茶室になっているそうです。
櫓でありながら数奇屋風になっています。
この石垣の穴を抜けると井戸曲輪に降りられます。
今は非公開になっています。
今回の天守の公開で多くの観光客が来て、混雑するために見学ルートはかなり制限されています。
以前に入れた井戸曲輪も今は入れません。
ブームが落ち着けば、また見学できるようになると思いますが。
井戸曲輪は通称切腹丸と言われていました。
袋小路の縄張りからそのような名前が付けられましたが、史実ではありません。
への櫓です。
通称太鼓櫓です。
りの門です。
内側からの写真です。
太鼓櫓(への櫓)とりの門(左)です。
太鼓櫓は中に太鼓が置かれていました。
(続く)
指月城(伏見城)発掘調査現地説明会 [発掘調査現説]
6月20日に指月城(京都市伏見区桃山町)の発掘調査現地説明会があったので、参加しました。
前日に全国紙各守ネットに大々的に出ていたので、人気があるとは思いましたが、まさかのものすごい人でした。
2300人の参加があったそうです。
やはりお城は人気ですね。
伏見城と言えば、安土桃山時代と言われるように豊臣秀吉の城のイメージが強いです。
しかし、伏見城の歴史は結構複雑です。
今、一般的に伏見城と思われているのは、伏見キャッスルランドの遊園地で、本来の伏見城ではありません。
豊臣秀吉は天正20年(1592)に伏見に隠居屋敷の建設を始めます。
後に淀城の天守や石垣を移築した大規模な城として完成しますが、文禄5年(1596)の大地震により倒壊します。
これが指月城です。
秀吉は地震の後、木幡山に伏見城を再建して、1年後に完成します。
秀吉は文禄3年(1598)にこの伏見城で亡くなります。
伏見城は関ケ原合戦の前哨戦で徳川家康の家臣鳥居元忠らが籠城しますが、西軍の攻撃を受けて落城します。
関ケ原合戦後には徳川家康は伏見城を再建して江戸の初期まで機能しました。
しかし、指月城はその痕跡は全くなく、不明の城で、その存在すら疑われていました。
今回、初めて指月城の遺構が確認されたのは大きな成果です。
ここは市営住宅が建っていて、その建替え工事のために発掘調査が行われました。
石垣と堀が見つかりました。
石垣は長さ36メートルにわたり見つかりました。
発掘された石垣の石です。
石垣は一辺1メートル以上の花崗岩や堆積岩で組まれていました。
石垣は下段の1~2段が出土しました。
高さは1メートルほどです。
本来は3段以上に積まれていたと推定されます。
最下段の石には胴木はありませんでしたが、石の間には間詰石が多くあり、裏込め石もありました。
石垣の積み方は穴太積みで、表面は60度の角度を付けています。
石の種類、大きさ、積み方は一昨年の聚楽第の石垣と類似しています。
また、秀吉時代の大坂城の石垣とも共通します。
伏見城(木幡城)の大名屋敷から見つかる石垣は花崗岩系の割り石を多用しているのに対して、伏見城の先行する聚楽第や大坂城は自然石が多く、割り石が少ないことが特徴です。
指月城の石垣も聚楽第などの古い特徴があります。
石垣の外の堀は幅7メートル以上あり、深さも現状でも2メートルありますが、堀底まで掘っていないので、4メートルを超えると思われます。
今後も堀底まで発掘調査を続けるそうです。
堀の断面図です。
石垣の下に犬走りを設けて、その下に堀を掘っていたようです。
堀には石垣がなく、素掘りでした。
とにかくものすごい見学者でした。
そのために少しずつ見学者を入れて、入れ替えての説明会でした。
また、堀の中から多くの金箔瓦が見つかっています。
金箔軒平瓦です。
金箔唐草文軒平瓦です。
滴水型です。
金箔桐文軒丸瓦です。
花菱文方形飾瓦です。
これらの瓦は聚楽第や大坂城と同型の瓦であり、金箔瓦の使用により、ここが指月城の遺構と推定する大きな根拠となっています。
また、これらが見つかった土層は一気に埋められていて、地震により倒壊した指月城の瓦などの廃棄材を堀に棄てて、埋め戻したと思われます。
指月城は図面も何も残っていないので、この堀の場所がどこの部分に当たるかは分かりません。
しかし、地形的に高くなっている三段の中央部であり、金箔瓦の使用からも本丸の堀の可能性があります。
ただ、この堀も集合住宅の建設のために埋め戻されます。
せっかくの遺構なのでなんとか残して活用できる方法はないものでしょうか。
前日に全国紙各守ネットに大々的に出ていたので、人気があるとは思いましたが、まさかのものすごい人でした。
2300人の参加があったそうです。
やはりお城は人気ですね。
伏見城と言えば、安土桃山時代と言われるように豊臣秀吉の城のイメージが強いです。
しかし、伏見城の歴史は結構複雑です。
今、一般的に伏見城と思われているのは、伏見キャッスルランドの遊園地で、本来の伏見城ではありません。
豊臣秀吉は天正20年(1592)に伏見に隠居屋敷の建設を始めます。
後に淀城の天守や石垣を移築した大規模な城として完成しますが、文禄5年(1596)の大地震により倒壊します。
これが指月城です。
秀吉は地震の後、木幡山に伏見城を再建して、1年後に完成します。
秀吉は文禄3年(1598)にこの伏見城で亡くなります。
伏見城は関ケ原合戦の前哨戦で徳川家康の家臣鳥居元忠らが籠城しますが、西軍の攻撃を受けて落城します。
関ケ原合戦後には徳川家康は伏見城を再建して江戸の初期まで機能しました。
しかし、指月城はその痕跡は全くなく、不明の城で、その存在すら疑われていました。
今回、初めて指月城の遺構が確認されたのは大きな成果です。
ここは市営住宅が建っていて、その建替え工事のために発掘調査が行われました。
石垣と堀が見つかりました。
石垣は長さ36メートルにわたり見つかりました。
発掘された石垣の石です。
石垣は一辺1メートル以上の花崗岩や堆積岩で組まれていました。
石垣は下段の1~2段が出土しました。
高さは1メートルほどです。
本来は3段以上に積まれていたと推定されます。
最下段の石には胴木はありませんでしたが、石の間には間詰石が多くあり、裏込め石もありました。
石垣の積み方は穴太積みで、表面は60度の角度を付けています。
石の種類、大きさ、積み方は一昨年の聚楽第の石垣と類似しています。
また、秀吉時代の大坂城の石垣とも共通します。
伏見城(木幡城)の大名屋敷から見つかる石垣は花崗岩系の割り石を多用しているのに対して、伏見城の先行する聚楽第や大坂城は自然石が多く、割り石が少ないことが特徴です。
指月城の石垣も聚楽第などの古い特徴があります。
石垣の外の堀は幅7メートル以上あり、深さも現状でも2メートルありますが、堀底まで掘っていないので、4メートルを超えると思われます。
今後も堀底まで発掘調査を続けるそうです。
堀の断面図です。
石垣の下に犬走りを設けて、その下に堀を掘っていたようです。
堀には石垣がなく、素掘りでした。
とにかくものすごい見学者でした。
そのために少しずつ見学者を入れて、入れ替えての説明会でした。
また、堀の中から多くの金箔瓦が見つかっています。
金箔軒平瓦です。
金箔唐草文軒平瓦です。
滴水型です。
金箔桐文軒丸瓦です。
花菱文方形飾瓦です。
これらの瓦は聚楽第や大坂城と同型の瓦であり、金箔瓦の使用により、ここが指月城の遺構と推定する大きな根拠となっています。
また、これらが見つかった土層は一気に埋められていて、地震により倒壊した指月城の瓦などの廃棄材を堀に棄てて、埋め戻したと思われます。
指月城は図面も何も残っていないので、この堀の場所がどこの部分に当たるかは分かりません。
しかし、地形的に高くなっている三段の中央部であり、金箔瓦の使用からも本丸の堀の可能性があります。
ただ、この堀も集合住宅の建設のために埋め戻されます。
せっかくの遺構なのでなんとか残して活用できる方法はないものでしょうか。