指月城(伏見城)発掘調査現地説明会 [発掘調査現説]
6月20日に指月城(京都市伏見区桃山町)の発掘調査現地説明会があったので、参加しました。
前日に全国紙各守ネットに大々的に出ていたので、人気があるとは思いましたが、まさかのものすごい人でした。
2300人の参加があったそうです。
やはりお城は人気ですね。
伏見城と言えば、安土桃山時代と言われるように豊臣秀吉の城のイメージが強いです。
しかし、伏見城の歴史は結構複雑です。
今、一般的に伏見城と思われているのは、伏見キャッスルランドの遊園地で、本来の伏見城ではありません。
豊臣秀吉は天正20年(1592)に伏見に隠居屋敷の建設を始めます。
後に淀城の天守や石垣を移築した大規模な城として完成しますが、文禄5年(1596)の大地震により倒壊します。
これが指月城です。
秀吉は地震の後、木幡山に伏見城を再建して、1年後に完成します。
秀吉は文禄3年(1598)にこの伏見城で亡くなります。
伏見城は関ケ原合戦の前哨戦で徳川家康の家臣鳥居元忠らが籠城しますが、西軍の攻撃を受けて落城します。
関ケ原合戦後には徳川家康は伏見城を再建して江戸の初期まで機能しました。
しかし、指月城はその痕跡は全くなく、不明の城で、その存在すら疑われていました。
今回、初めて指月城の遺構が確認されたのは大きな成果です。
ここは市営住宅が建っていて、その建替え工事のために発掘調査が行われました。
石垣と堀が見つかりました。
石垣は長さ36メートルにわたり見つかりました。
発掘された石垣の石です。
石垣は一辺1メートル以上の花崗岩や堆積岩で組まれていました。
石垣は下段の1~2段が出土しました。
高さは1メートルほどです。
本来は3段以上に積まれていたと推定されます。
最下段の石には胴木はありませんでしたが、石の間には間詰石が多くあり、裏込め石もありました。
石垣の積み方は穴太積みで、表面は60度の角度を付けています。
石の種類、大きさ、積み方は一昨年の聚楽第の石垣と類似しています。
また、秀吉時代の大坂城の石垣とも共通します。
伏見城(木幡城)の大名屋敷から見つかる石垣は花崗岩系の割り石を多用しているのに対して、伏見城の先行する聚楽第や大坂城は自然石が多く、割り石が少ないことが特徴です。
指月城の石垣も聚楽第などの古い特徴があります。
石垣の外の堀は幅7メートル以上あり、深さも現状でも2メートルありますが、堀底まで掘っていないので、4メートルを超えると思われます。
今後も堀底まで発掘調査を続けるそうです。
堀の断面図です。
石垣の下に犬走りを設けて、その下に堀を掘っていたようです。
堀には石垣がなく、素掘りでした。
とにかくものすごい見学者でした。
そのために少しずつ見学者を入れて、入れ替えての説明会でした。
また、堀の中から多くの金箔瓦が見つかっています。
金箔軒平瓦です。
金箔唐草文軒平瓦です。
滴水型です。
金箔桐文軒丸瓦です。
花菱文方形飾瓦です。
これらの瓦は聚楽第や大坂城と同型の瓦であり、金箔瓦の使用により、ここが指月城の遺構と推定する大きな根拠となっています。
また、これらが見つかった土層は一気に埋められていて、地震により倒壊した指月城の瓦などの廃棄材を堀に棄てて、埋め戻したと思われます。
指月城は図面も何も残っていないので、この堀の場所がどこの部分に当たるかは分かりません。
しかし、地形的に高くなっている三段の中央部であり、金箔瓦の使用からも本丸の堀の可能性があります。
ただ、この堀も集合住宅の建設のために埋め戻されます。
せっかくの遺構なのでなんとか残して活用できる方法はないものでしょうか。
前日に全国紙各守ネットに大々的に出ていたので、人気があるとは思いましたが、まさかのものすごい人でした。
2300人の参加があったそうです。
やはりお城は人気ですね。
伏見城と言えば、安土桃山時代と言われるように豊臣秀吉の城のイメージが強いです。
しかし、伏見城の歴史は結構複雑です。
今、一般的に伏見城と思われているのは、伏見キャッスルランドの遊園地で、本来の伏見城ではありません。
豊臣秀吉は天正20年(1592)に伏見に隠居屋敷の建設を始めます。
後に淀城の天守や石垣を移築した大規模な城として完成しますが、文禄5年(1596)の大地震により倒壊します。
これが指月城です。
秀吉は地震の後、木幡山に伏見城を再建して、1年後に完成します。
秀吉は文禄3年(1598)にこの伏見城で亡くなります。
伏見城は関ケ原合戦の前哨戦で徳川家康の家臣鳥居元忠らが籠城しますが、西軍の攻撃を受けて落城します。
関ケ原合戦後には徳川家康は伏見城を再建して江戸の初期まで機能しました。
しかし、指月城はその痕跡は全くなく、不明の城で、その存在すら疑われていました。
今回、初めて指月城の遺構が確認されたのは大きな成果です。
ここは市営住宅が建っていて、その建替え工事のために発掘調査が行われました。
石垣と堀が見つかりました。
石垣は長さ36メートルにわたり見つかりました。
発掘された石垣の石です。
石垣は一辺1メートル以上の花崗岩や堆積岩で組まれていました。
石垣は下段の1~2段が出土しました。
高さは1メートルほどです。
本来は3段以上に積まれていたと推定されます。
最下段の石には胴木はありませんでしたが、石の間には間詰石が多くあり、裏込め石もありました。
石垣の積み方は穴太積みで、表面は60度の角度を付けています。
石の種類、大きさ、積み方は一昨年の聚楽第の石垣と類似しています。
また、秀吉時代の大坂城の石垣とも共通します。
伏見城(木幡城)の大名屋敷から見つかる石垣は花崗岩系の割り石を多用しているのに対して、伏見城の先行する聚楽第や大坂城は自然石が多く、割り石が少ないことが特徴です。
指月城の石垣も聚楽第などの古い特徴があります。
石垣の外の堀は幅7メートル以上あり、深さも現状でも2メートルありますが、堀底まで掘っていないので、4メートルを超えると思われます。
今後も堀底まで発掘調査を続けるそうです。
堀の断面図です。
石垣の下に犬走りを設けて、その下に堀を掘っていたようです。
堀には石垣がなく、素掘りでした。
とにかくものすごい見学者でした。
そのために少しずつ見学者を入れて、入れ替えての説明会でした。
また、堀の中から多くの金箔瓦が見つかっています。
金箔軒平瓦です。
金箔唐草文軒平瓦です。
滴水型です。
金箔桐文軒丸瓦です。
花菱文方形飾瓦です。
これらの瓦は聚楽第や大坂城と同型の瓦であり、金箔瓦の使用により、ここが指月城の遺構と推定する大きな根拠となっています。
また、これらが見つかった土層は一気に埋められていて、地震により倒壊した指月城の瓦などの廃棄材を堀に棄てて、埋め戻したと思われます。
指月城は図面も何も残っていないので、この堀の場所がどこの部分に当たるかは分かりません。
しかし、地形的に高くなっている三段の中央部であり、金箔瓦の使用からも本丸の堀の可能性があります。
ただ、この堀も集合住宅の建設のために埋め戻されます。
せっかくの遺構なのでなんとか残して活用できる方法はないものでしょうか。
ゲンセツラッシュ [発掘調査現説]
年度末だからでしょうか。
ここに来てお城の発掘調査現地説明会が目白押しです。
遠方が多くてなかなか行けませんが、一つでも行きたい・・。
2015年3月14日(土)
福岡城武具櫓
13:00~15:00
場所 福岡市中央区城内
問合せ
福岡市大規模史跡整備推進課
℡092-711-4784
2015年3月14日(土)
福井城跡
13:00~ 15:00~
場所 大阪府茨木市東福井3丁目
問合せ
茨木市教育委員会
℡072-620-1686
2015年3月14日(土)
佐賀城東堀跡
9:00~ 10:00~ 11:00~
場所 佐賀県佐賀市城内
問合せ
佐賀市教育委員会
℡0952-40-7368
2015年3月14日(土)
鳥取城跡(大手登城路)
13:00 ~
場所 鳥取県鳥取市
問合せ
鳥取市教育委員会
℡0857-20-3367
2015年3月15日(日)
吉田城跡
10:00~ 14:00~
場所 愛知県豊橋市今橋町
問合せ
豊橋市文化財センター
℡0532-56-6060
2015年3月21日(土)
山形城二の丸隅櫓石垣復原完成説明会
10:30 ~
場所 山形県山形市霞城町
問合せ
山形市教育委員会
℡023-641-1212
2015年3月22日(日)
萩城跡本丸門跡石垣保存修理現地見学会
10:00~
場 所:山口県萩市大字堀内
問合せ:萩市文化財保護課
℡0838-25-3654
ここに来てお城の発掘調査現地説明会が目白押しです。
遠方が多くてなかなか行けませんが、一つでも行きたい・・。
2015年3月14日(土)
福岡城武具櫓
13:00~15:00
場所 福岡市中央区城内
問合せ
福岡市大規模史跡整備推進課
℡092-711-4784
2015年3月14日(土)
福井城跡
13:00~ 15:00~
場所 大阪府茨木市東福井3丁目
問合せ
茨木市教育委員会
℡072-620-1686
2015年3月14日(土)
佐賀城東堀跡
9:00~ 10:00~ 11:00~
場所 佐賀県佐賀市城内
問合せ
佐賀市教育委員会
℡0952-40-7368
2015年3月14日(土)
鳥取城跡(大手登城路)
13:00 ~
場所 鳥取県鳥取市
問合せ
鳥取市教育委員会
℡0857-20-3367
2015年3月15日(日)
吉田城跡
10:00~ 14:00~
場所 愛知県豊橋市今橋町
問合せ
豊橋市文化財センター
℡0532-56-6060
2015年3月21日(土)
山形城二の丸隅櫓石垣復原完成説明会
10:30 ~
場所 山形県山形市霞城町
問合せ
山形市教育委員会
℡023-641-1212
2015年3月22日(日)
萩城跡本丸門跡石垣保存修理現地見学会
10:00~
場 所:山口県萩市大字堀内
問合せ:萩市文化財保護課
℡0838-25-3654
小牧山城の発掘調査現地説明会 [発掘調査現説]
愛知県小牧市の小牧山城の発掘調査現地説明会がありましたので、行ってきました。
小牧山城のニュースは中日新聞や朝日新聞にも出ていましたし、前日にNHKのニュースでもやっていました。
また、ヤフーのトップニュースにもなっていたので多くの人が来ていました。
説明会の様子です。
500人以上は来ていたようです。
織田信長の城というだけで人気は高いですね。
まずは、以下に読売新聞の記事を転載します。
. 信長の小牧山城「当時の技術の限界超える石垣」
読売新聞 2月13日(金)9時29分配信
戦国武将の織田信長(1534~82年)が1563年(永禄6年)に築城した愛知県小牧市の小牧山城は、3段の石垣(高さ約6メートル)で囲まれていたことが発掘調査で分かった。
同市教委が12日発表した。市教委は「近づくと高さ6メートルの石垣がそびえ立っているように見え、若い信長が、部下や敵対する勢力を圧倒する演出効果を狙ったのではないか」と分析している。
小牧山城の中心部を囲む石垣については、これまでの城跡の調査で、上から1、2段目(高さ計約4メートル)は出土していたが、3段目が確認されたのは初めて。
新たに見つかった3段目は高さ約2メートルで、下部の約1メートルは高さや幅が30~50センチの自然石を積み上げていた。
今回発掘されたのは北東の長さ約25メートルにわたる部分だが、市教委によると、3段の石垣は山頂の中心部を周回している可能性があるという。
信長は1563年に、居城を尾張国(愛知県)の中心地だった清須城(同県清須市)から小牧山城に移した。
4年後の67年に岐阜城(岐阜市、稲葉山城)を攻略して本拠を移したため、4年しかいなかった小牧山城は仮の砦と考えられてきた。
しかし、2010年度に小牧市教委の発掘調査で2段の石垣が見つかり、安土城(滋賀県)に先立つ本格的な石垣の城であることがわかっていた。
千田嘉博・奈良大学長(城郭考古学)は「当時としての技術の限界を超える石垣」で驚いた。
小牧山城は、常識にとらわれない信長の人となりが反映された城だったことが改めて分かる発見だ」と意義を語った。
中井均・滋賀県立大教授(日本城郭史)は「3段目には崩れを防ぐための基礎工事の意味もあったのではないか。
信長が築いた最初の城にもかかわらず、非常に計画的で、考えられていたよりも高度な技術が使われていたことが分かる」と指摘している。
これは上部の二段の石垣です。
上のほうは抜き取られています。
正面から
石は割りと小さめです。
裏込め石が見られます。
二段目の石垣です。
下の根石の部分がきれいに出ています。
こちらは一段目です。
斜面で危ないために上から覗くだけでした。
裏込め目石も1mほどありました。
こんなイメージです。
上の写真でもわかるように、一段目と二段目の間は巾2mほどの犬走りがありました。
一部ニュースでは高さ6mの石垣と言っていましたが、実際には三段で6メートルで一番下のは、かなり巾があり一体のものとは言いにくいようです。
中井均教授がコメントしているように一番下は崩れを防ぐ基礎工事だと思います。
二段目の石垣です。
小牧山城は土造りの中世の山城のイメージでしたが、山頂部は高石垣で囲んだ織豊期城郭の山城だったことが分かりました。
信長の城は、その後岐阜城、安土城とつながりますが、この石垣技術が安土城にどのようにつながっていくのか興味津々です。
小牧山の山頂に立つ歴史館。
天守を模して建てられました。
仕方ない事ですが、当時は事前に発掘調査を行わずに建てられました。
今から思うと調査しておけば、建物の跡など見つかったと思うけど残念です。
鉄筋コンクリート造りなので地下遺構も残っていないでしょうね。
小牧山城の木型です。
全山に堀や土塁が作られて要塞化されていました。
発掘調査の成果に基づいて造られた石垣の模型です。
ここでは二段に作られています。
小牧山城のニュースは中日新聞や朝日新聞にも出ていましたし、前日にNHKのニュースでもやっていました。
また、ヤフーのトップニュースにもなっていたので多くの人が来ていました。
説明会の様子です。
500人以上は来ていたようです。
織田信長の城というだけで人気は高いですね。
まずは、以下に読売新聞の記事を転載します。
. 信長の小牧山城「当時の技術の限界超える石垣」
読売新聞 2月13日(金)9時29分配信
戦国武将の織田信長(1534~82年)が1563年(永禄6年)に築城した愛知県小牧市の小牧山城は、3段の石垣(高さ約6メートル)で囲まれていたことが発掘調査で分かった。
同市教委が12日発表した。市教委は「近づくと高さ6メートルの石垣がそびえ立っているように見え、若い信長が、部下や敵対する勢力を圧倒する演出効果を狙ったのではないか」と分析している。
小牧山城の中心部を囲む石垣については、これまでの城跡の調査で、上から1、2段目(高さ計約4メートル)は出土していたが、3段目が確認されたのは初めて。
新たに見つかった3段目は高さ約2メートルで、下部の約1メートルは高さや幅が30~50センチの自然石を積み上げていた。
今回発掘されたのは北東の長さ約25メートルにわたる部分だが、市教委によると、3段の石垣は山頂の中心部を周回している可能性があるという。
信長は1563年に、居城を尾張国(愛知県)の中心地だった清須城(同県清須市)から小牧山城に移した。
4年後の67年に岐阜城(岐阜市、稲葉山城)を攻略して本拠を移したため、4年しかいなかった小牧山城は仮の砦と考えられてきた。
しかし、2010年度に小牧市教委の発掘調査で2段の石垣が見つかり、安土城(滋賀県)に先立つ本格的な石垣の城であることがわかっていた。
千田嘉博・奈良大学長(城郭考古学)は「当時としての技術の限界を超える石垣」で驚いた。
小牧山城は、常識にとらわれない信長の人となりが反映された城だったことが改めて分かる発見だ」と意義を語った。
中井均・滋賀県立大教授(日本城郭史)は「3段目には崩れを防ぐための基礎工事の意味もあったのではないか。
信長が築いた最初の城にもかかわらず、非常に計画的で、考えられていたよりも高度な技術が使われていたことが分かる」と指摘している。
これは上部の二段の石垣です。
上のほうは抜き取られています。
正面から
石は割りと小さめです。
裏込め石が見られます。
二段目の石垣です。
下の根石の部分がきれいに出ています。
こちらは一段目です。
斜面で危ないために上から覗くだけでした。
裏込め目石も1mほどありました。
こんなイメージです。
上の写真でもわかるように、一段目と二段目の間は巾2mほどの犬走りがありました。
一部ニュースでは高さ6mの石垣と言っていましたが、実際には三段で6メートルで一番下のは、かなり巾があり一体のものとは言いにくいようです。
中井均教授がコメントしているように一番下は崩れを防ぐ基礎工事だと思います。
二段目の石垣です。
小牧山城は土造りの中世の山城のイメージでしたが、山頂部は高石垣で囲んだ織豊期城郭の山城だったことが分かりました。
信長の城は、その後岐阜城、安土城とつながりますが、この石垣技術が安土城にどのようにつながっていくのか興味津々です。
小牧山の山頂に立つ歴史館。
天守を模して建てられました。
仕方ない事ですが、当時は事前に発掘調査を行わずに建てられました。
今から思うと調査しておけば、建物の跡など見つかったと思うけど残念です。
鉄筋コンクリート造りなので地下遺構も残っていないでしょうね。
小牧山城の木型です。
全山に堀や土塁が作られて要塞化されていました。
発掘調査の成果に基づいて造られた石垣の模型です。
ここでは二段に作られています。
刈谷城の発掘調査現地説明会 [発掘調査現説]
愛知県刈谷市にある刈谷城跡の発掘調査現地説明会に参加しました。
本丸の辰見櫓の下付近です。
前日に雨が降ったためにビニルシートで覆われています。
下は足場が悪かった。
帯曲輪東門の跡です。
門の礎石が見つかりました。
辰見櫓の石垣の地固め遺構です。
なんとも分かりにくいです。
刈谷城は明治維新後に建物や石垣までが売りに出されました。
そのために石垣は完全に破壊されて、根石の部分まで撤去されています。
そのため発掘しても石垣は出てこなくて、石垣の下に敷いた地固めの小石が見つかっています。
そのため、おおよその石垣の大きさが判明しました。
これは多聞櫓の石垣の地固めです。
細かい石が堆積しています。
今回の発掘で見つかった唯一の石垣の石です。
矢穴が見られます。
ただ、この石も転落した状況で出ているので、本来はどこの部分かはわかりません。
本丸表門付近です。
ここでも地固めの遺構が出ています。
ロープで囲ってある部分が多聞櫓の跡です。
地固め遺構です。
一部石が見えますが、石垣の痕跡でしょうか。
発掘で見つかった家紋瓦です。
立ち沢潟紋です。
同じく家紋瓦です。
八本柄勺水車紋です。
説明会の様子です。
右が説明するイビソクの社員です。
イビソクは今回の発掘調査の委託をされた業者です。
最近は、教育委員会が直接発掘するのではなく、業者に委託することが多くなりました。
本丸裏門です。
礎石が見つかりました。
刈谷城の発掘調査は平成21年度から始まりましたが、今回で終わりです。
今後はこの成果を元にして、刈谷城の本丸表門、辰巳櫓、裏門と多聞櫓を復元していきます。
石垣から築くためにかなりの大工事になります。
本丸の辰見櫓の下付近です。
前日に雨が降ったためにビニルシートで覆われています。
下は足場が悪かった。
帯曲輪東門の跡です。
門の礎石が見つかりました。
辰見櫓の石垣の地固め遺構です。
なんとも分かりにくいです。
刈谷城は明治維新後に建物や石垣までが売りに出されました。
そのために石垣は完全に破壊されて、根石の部分まで撤去されています。
そのため発掘しても石垣は出てこなくて、石垣の下に敷いた地固めの小石が見つかっています。
そのため、おおよその石垣の大きさが判明しました。
これは多聞櫓の石垣の地固めです。
細かい石が堆積しています。
今回の発掘で見つかった唯一の石垣の石です。
矢穴が見られます。
ただ、この石も転落した状況で出ているので、本来はどこの部分かはわかりません。
本丸表門付近です。
ここでも地固めの遺構が出ています。
ロープで囲ってある部分が多聞櫓の跡です。
地固め遺構です。
一部石が見えますが、石垣の痕跡でしょうか。
発掘で見つかった家紋瓦です。
立ち沢潟紋です。
同じく家紋瓦です。
八本柄勺水車紋です。
説明会の様子です。
右が説明するイビソクの社員です。
イビソクは今回の発掘調査の委託をされた業者です。
最近は、教育委員会が直接発掘するのではなく、業者に委託することが多くなりました。
本丸裏門です。
礎石が見つかりました。
刈谷城の発掘調査は平成21年度から始まりましたが、今回で終わりです。
今後はこの成果を元にして、刈谷城の本丸表門、辰巳櫓、裏門と多聞櫓を復元していきます。
石垣から築くためにかなりの大工事になります。
岐阜城織田信長館の発掘調査 [発掘調査現説]
岐阜城織田信長館の発掘調査現地説明会がありましたので、行ってきました。
岐阜城のゲンセツは久しぶりの参加です。
岐阜城です。
金華山に築かれていました。
織田信長館はその山麓にありました。
信長館の奥の庭園にかかる発掘です。
昨年の発掘で橋の遺構かと思われるものが出ましたが、今年はその反対側でも出ています。
石垣は焼けた跡が出ました。
関ケ原合戦の時の落城時の火災と思われます。
石垣の上に平坦地が見つかりました。
ここの部分に橋脚があったと推定されています。
石垣の写真ではわかりにくいので、想像のイラスト図です。
中央にある橋の遺構が今回見つかったものです。
庭園の谷を結ぶものです。
左の庭園からは滝が見つかっています。
岐阜市の教育委員会はこの橋を京都東福寺の通天橋のようなものを想定しています。
または、同じく東福寺の堰月橋のような橋を考えています。
庭園に関するもので、ただの橋ではなく、屋根のついた橋です。
石垣はさらに続いていましたが、今は崩れています。
裏込め石があることで石垣の存在がわかります。
その奥にある滝です。
こちらは近代の岐阜公園整備によるものですが、もしかすると信長の時期にまで遡るかもしれません。
滝の上にある巨岩です。
独特の形をしています。
庭園の借景として使われていたのでしょうね。
今の橋です。
コンクリート製です。
山麓の信長館の付近の図です。
上の赤く囲われている部分が庭園です。
庭園と居館の間の谷です。
奥の赤い橋の手前から橋脚が出ています。
岐阜城の想像図です。
昭和47年くらいに描かれたものです。
フロイスの日本の記述により御殿は三階建てに描いてあります。
こちらは発掘調査の成果を元に描かれた岐阜城信長館の想像図です。
以前の発掘調査で出土した金箔瓦を復元したものです。
金ぴかでした。
普通の良くある瓦とは違うタイプでした。
今回の発掘現場の全景です。
範囲はそれほど広くはありませんでした。
岐阜城のゲンセツは久しぶりの参加です。
岐阜城です。
金華山に築かれていました。
織田信長館はその山麓にありました。
信長館の奥の庭園にかかる発掘です。
昨年の発掘で橋の遺構かと思われるものが出ましたが、今年はその反対側でも出ています。
石垣は焼けた跡が出ました。
関ケ原合戦の時の落城時の火災と思われます。
石垣の上に平坦地が見つかりました。
ここの部分に橋脚があったと推定されています。
石垣の写真ではわかりにくいので、想像のイラスト図です。
中央にある橋の遺構が今回見つかったものです。
庭園の谷を結ぶものです。
左の庭園からは滝が見つかっています。
岐阜市の教育委員会はこの橋を京都東福寺の通天橋のようなものを想定しています。
または、同じく東福寺の堰月橋のような橋を考えています。
庭園に関するもので、ただの橋ではなく、屋根のついた橋です。
石垣はさらに続いていましたが、今は崩れています。
裏込め石があることで石垣の存在がわかります。
その奥にある滝です。
こちらは近代の岐阜公園整備によるものですが、もしかすると信長の時期にまで遡るかもしれません。
滝の上にある巨岩です。
独特の形をしています。
庭園の借景として使われていたのでしょうね。
今の橋です。
コンクリート製です。
山麓の信長館の付近の図です。
上の赤く囲われている部分が庭園です。
庭園と居館の間の谷です。
奥の赤い橋の手前から橋脚が出ています。
岐阜城の想像図です。
昭和47年くらいに描かれたものです。
フロイスの日本の記述により御殿は三階建てに描いてあります。
こちらは発掘調査の成果を元に描かれた岐阜城信長館の想像図です。
以前の発掘調査で出土した金箔瓦を復元したものです。
金ぴかでした。
普通の良くある瓦とは違うタイプでした。
今回の発掘現場の全景です。
範囲はそれほど広くはありませんでした。