特別展「浜松城主 堀尾吉晴」  [歴史雑話]

浜松市博物館で特別展「浜松城主 堀尾吉晴」 が開催されていますので、早速見て来ました。

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堀尾吉晴といってもあまり有名ではありませんが、豊臣秀吉に仕えた戦国武将です。

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館内には幟旗がひらめいています。

堀尾吉晴について、博物館のホームページを引用します。


皆さんは浜松城の天守を誰が建てたかご存知ですか?

「もちろん、徳川家康でしょ!」

と言う方がほとんどなのではないでしょうか?
実は浜松城に石垣を築き、天守を建てたのは、徳川家康ではなく、堀尾吉晴という大名なのです。

堀尾吉晴は、尾張国の出身で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三人の天下人に仕えました。豊臣政権下では秀吉の重臣となり、秀吉の天下統一を助けました。

吉晴は、小田原の北条攻めのあと、十二万石の知行で浜松城主となりました。
浜松在城は、わずか十年でありましたが、吉晴が浜松に残したものは大きなものがありました。私たちが現在見ることの出来る浜松城の石垣は、吉晴が築き、天守台の上に巨大な天守を建てたと考えられています。
 堀尾氏は知行地内の二俣城や鳥羽山城も石垣を持つ城へ改修しました。浜松城や二俣城を家康の築いた戦国の城から近世城郭へ大きく変貌させ、豊臣政権の天下を世に知らしめました。

その後吉晴は、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍側につきました。関ヶ原の戦いでは、息子忠氏の活躍もあり、二十四万石に加増され出雲・隠岐国の国持大名へ大出世しました。

今回の展示では、吉晴の浜松在城期を中心に、豊臣秀吉の下で頭角を現し、やがて、佐和山城主四万石、浜松城主十二万石と領地加増で出世を繰り返し、秀吉没後は家康に付き、関ヶ原の合戦後に出雲・隠岐国二十四万石の大大名となる生涯を信長・秀吉・家康との関係を交え現存する資料を中心に紹介していきます。

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浜松城の天守を建てたとしっかり書いてあります。

もともと浜松城は徳川家康の居城で、徳川の城のイメージが強い中で堀尾吉晴を取り上げた展示はいい企画です。

ただ、堀尾氏の建てた天守がどのようなものであったか、何故堀尾氏が建てたと言えるのかの説明がなく、そのあたりがわかりにくかったです。
浜松城時代の堀尾吉晴がどういう政治をしたのかなどもわかるとよかったです。

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展示の様子です。
中は写真撮影禁止なので写真はありません。

豊臣秀吉が徳川家康を見張るために家康の旧領の東海道に配置した堀尾吉晴、山内一豊、池田輝政、中村一氏らの秀吉子飼いの武将は、関ヶ原合戦の時には全員が家康に味方して、秀吉の目論みは崩れます。

そのおかげで堀尾氏は生き延び、関ヶ原合戦後は松江城主として24万石の大名に出世します。

特別展「浜松城主 堀尾吉晴」 
2012年10月20日(土)~11月25日(日)
浜松市博物館
静岡県浜松市中区蜆塚四丁目22番1号
℡053-456-2208

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コメント 2

hatumi30331

しかし・・・体力ありますね!
日本全国行ってますね〜♪^^
by hatumi30331 (2012-10-20 21:57) 

やなぼー

堀尾吉晴といえば、「松江城」ですよね!
浜松もそうでしたか。
by やなぼー (2012-10-21 05:32) 

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