丸亀城の古写真を募集中 [お城復元]
『現存12天守閣』のなかでも取り上げられていますが、丸亀市では、丸亀城の古写真を募集しています。
なんとこの募集には最高1000万円の懸賞金付きです。
以下は、丸亀市のホームページを転載します。
丸亀市では、「隅櫓跡及び渡櫓跡」の復元を目指し、古写真を収集しています
石垣の城として知られている丸亀城跡には、現在、重要文化財の天守と大手門、県指定文化財の藩主の玄関先御門が江戸時代の現存木造建造物として残っています。
本来、山上には天守以外に十一棟の隅櫓とそれを繋ぐ渡櫓や門などがありました。
史跡丸亀城跡保存修理事業として平成3年度から毀損石垣の修復を実施していますが、この事業の最終目標である京極氏時代の完全復元、いわゆる「隅櫓・渡櫓」の復元を目指し、これらの建物が完全復元できる古写真を収集するものです。
復元に必要な写真資料として下記すべての条件が必要となります。完全復元を目指しているため、古写真一枚ではこれらの条件を満たすことは難しく、複数の古写真が必要となります。
① 隅櫓・渡櫓が写っている写真(天守や大手門・藩主の玄関先御門の写真ではありません)
②明治2年(1869)の旧御殿焼失に伴い三の丸戌亥櫓が火災で焼失しています。その他の隅櫓、渡櫓は明治9から10年(1876~77)頃に取り壊されましたので、古写真は明治初期のものが必要となります。
③隅櫓・渡櫓すべての外観が判る写真
(1)建物の向き
(2)階数
(3)外部の意匠(破風・窓・狭間等が判るもの)
④隅櫓・渡櫓の高さの判る写真(石垣や樹木が写っているもの)
⑤建物内部を写した写真(骨組みがわかるもの)
丸亀城の古写真はあまり知られていません。復元に必要な古写真の条件はかなり厳しいものですが、上記の条件を満たす情報があればご一報下さい。
参考資料
丸亀城木図(黄色の網掛け部分が今回写真提供を呼び掛けている箇所)
丸亀城平面図(オレンジ色の網掛け部分が該当箇所)
「丸亀城櫓復元資料収集懸賞事業」実施要項
●目的
市のシンボルである丸亀城には江戸時代初期の木造建造物である天守と大手門、藩主の玄関先御門が残っている。本来、山上には天守を中心に隅櫓※1や渡櫓※2があり、高石垣の城壁の上に白壁の建物が巡る美観を誇っていた。市としてはこれら櫓・渡櫓の復元を目指しているが、資料不足により文化庁の許可が得られる状況となっていない。
そこで、櫓復元をはじめ京極氏時代の完全復元を目指すうえに必要となる写真資料を総額1,000万円の懸賞金を懸けて募集する。
※1 隅櫓 石垣隅角部に建つ2階建て建物
※2 渡櫓 石垣上に建つ細長い1階建て。櫓と櫓をつなぐ建物。
●募集期間
平成16年4月1日~平成23年3月31日(7年間)
●受付期間
第1期については平成16年4月1日~9月30日。第2期については平成16年10月1日~17年3月31日。以後このようなかたちで半年ごとの受付期間を設けて募集を行い、復元できる写真資料が見つかった場合は打ち切りとする。
●実施機関
丸亀市
●懸賞金対象資料
明治初期に焼失及び取り壊された山上の隅櫓・渡櫓を復元できる古写真。(明治9年頃以前の写真)
●懸賞金対象者
明治初期に焼失及び取り壊された山上の隅櫓・渡櫓を復元できる古写真の提供者。
●懸賞金基準
(1)完全復元(隅櫓11箇所・渡櫓11箇所)の資料と認められるとき (1,000万円)
(2)完全復元はできないが、一部の櫓・渡櫓が復元可能な資料として認められるとき (審議のうえ決定)
(3)復元資料として使用できないもの (0円)
●問合せ先
丸亀市教育委員会 文化課 0877-24-8822
丸亀城は一二三の段とも言われる高石垣の上に立つ城で、現在は天守閣しか残らないけど、当時は多くの隅櫓とそれを結ぶ多聞櫓が連なっていました。
この石垣の上に隅櫓が林立する姿を見てみたいものです。
天守からみた本丸の多聞櫓と隅櫓の跡です。
山麓から見た大手門と天守です。
募集の締め切りは今年の3月末までですが、残念ながらまだ一件の提供もないようです。
天守閣だけの古写真の提供はあるそうですが、それはダメのようです。
明治10年まで残っていたようなので、古写真のある可能性はありますが、みつかる可能性はかなり低いでしょう。
高松城のようにアメリカの図書館から見つかる可能性もあるでしょうが。
特に櫓や多聞櫓全ての建物の向き・階数・外部の意匠(破風・窓・狭間等が判るもの) ・隅櫓・渡櫓の高さの判る写真(石垣や樹木が写っているもの) ・ 建物内部を写した写真(骨組みがわかるもの) などは丸亀城以外でも殆どなく期待薄です。
比較的古写真が残されている江戸城や名古屋でもすべての櫓はありません。
これだけの資料が欲しいのは、文化庁が国指定史跡の復元に際して規定する①発掘によって遺構が確認できる。②設計図がある。③古写真がある。の3条件がそろう必要があるためです。
もっとも、一時のお城ブームの時には、唐津城や中津城、富山城のようにありもしない天守閣を建てたり、岡崎城や福山城のように古写真があるにもかかわらず、最上階に観光のために高欄を付けるなど、史実に忠実ではない復元が続いたことは事実ですし、それを受けての文化庁の厳しい姿勢も一面では頷けます。
遺構があれば、①の基準はクリアできる城は多いけど、設計図が残っている城は非常に少ないものです。そもそも城の櫓や天守の設計図は最高の軍事機密でオープンにしていないため、多くは廃棄処分されているのです。
中には小峰城や松代城、犬山城、高崎城のように運良く設計図が残っている城もあります。
しかし、犬山城、高崎城のようにそういう城に限って完全に破壊されていて発掘調査もできないような状況です。
高松城の天守のように鮮明な古写真や発掘調査の成果があるにもかかわらず、文化庁の許可がでない城もあります。
これが高松城の天守閣の古写真ですが、かなり鮮明です。
これほどの古写真は他には望めないでしょうが、一方向しかないのが残念です。
欲を言えば三方向からの写真が欲しいです。
しかし、そもそも写真を撮るのは、記念のためで一番いいアングルから撮るものでしょう。
当時は写真も高価で貴重なためよほどのことがないと多アングルからの写真は難しいでしょう。
丸亀城については、上記のように櫓の形のわかる城絵図もあります。
しかし、丸亀城はなんといっても丸亀市のホームページの出ている木図があります。
このような立体的な模型の残る城は他にはありません。
この木図は大変よく出来ていて、櫓の形や屋根の向きまで再現されています。
これと発掘調査の資料と絵図があればかなり史実に近い復元ができるのではないでしょうか。
そもそも文化庁はなぜかお城の復元についてのみ、基準が厳しすぎます。
これは今年遷都1300年を迎えた平城京の大極殿です。
奈良時代だからもちろん古写真はありません。
大極殿の設計図もなければ、絵図さえも残っていないのです。
復元では二階になっていますが、今でも大極殿が二階か一階かが論争されているくらいなのです。
発掘調査はしていますが、それだけで建物の上部構造はわかりません。
当時の寺院などを参考にして想像して建てたにすぎないのです。
こんな曖昧な復元なのになぜか文化庁は国指定史跡の大極殿の復元を許可したのです。
文化庁の復元建物に関する温度差を感じます。
なんとこの募集には最高1000万円の懸賞金付きです。
以下は、丸亀市のホームページを転載します。
丸亀市では、「隅櫓跡及び渡櫓跡」の復元を目指し、古写真を収集しています
石垣の城として知られている丸亀城跡には、現在、重要文化財の天守と大手門、県指定文化財の藩主の玄関先御門が江戸時代の現存木造建造物として残っています。
本来、山上には天守以外に十一棟の隅櫓とそれを繋ぐ渡櫓や門などがありました。
史跡丸亀城跡保存修理事業として平成3年度から毀損石垣の修復を実施していますが、この事業の最終目標である京極氏時代の完全復元、いわゆる「隅櫓・渡櫓」の復元を目指し、これらの建物が完全復元できる古写真を収集するものです。
復元に必要な写真資料として下記すべての条件が必要となります。完全復元を目指しているため、古写真一枚ではこれらの条件を満たすことは難しく、複数の古写真が必要となります。
① 隅櫓・渡櫓が写っている写真(天守や大手門・藩主の玄関先御門の写真ではありません)
②明治2年(1869)の旧御殿焼失に伴い三の丸戌亥櫓が火災で焼失しています。その他の隅櫓、渡櫓は明治9から10年(1876~77)頃に取り壊されましたので、古写真は明治初期のものが必要となります。
③隅櫓・渡櫓すべての外観が判る写真
(1)建物の向き
(2)階数
(3)外部の意匠(破風・窓・狭間等が判るもの)
④隅櫓・渡櫓の高さの判る写真(石垣や樹木が写っているもの)
⑤建物内部を写した写真(骨組みがわかるもの)
丸亀城の古写真はあまり知られていません。復元に必要な古写真の条件はかなり厳しいものですが、上記の条件を満たす情報があればご一報下さい。
参考資料
丸亀城木図(黄色の網掛け部分が今回写真提供を呼び掛けている箇所)
丸亀城平面図(オレンジ色の網掛け部分が該当箇所)
「丸亀城櫓復元資料収集懸賞事業」実施要項
●目的
市のシンボルである丸亀城には江戸時代初期の木造建造物である天守と大手門、藩主の玄関先御門が残っている。本来、山上には天守を中心に隅櫓※1や渡櫓※2があり、高石垣の城壁の上に白壁の建物が巡る美観を誇っていた。市としてはこれら櫓・渡櫓の復元を目指しているが、資料不足により文化庁の許可が得られる状況となっていない。
そこで、櫓復元をはじめ京極氏時代の完全復元を目指すうえに必要となる写真資料を総額1,000万円の懸賞金を懸けて募集する。
※1 隅櫓 石垣隅角部に建つ2階建て建物
※2 渡櫓 石垣上に建つ細長い1階建て。櫓と櫓をつなぐ建物。
●募集期間
平成16年4月1日~平成23年3月31日(7年間)
●受付期間
第1期については平成16年4月1日~9月30日。第2期については平成16年10月1日~17年3月31日。以後このようなかたちで半年ごとの受付期間を設けて募集を行い、復元できる写真資料が見つかった場合は打ち切りとする。
●実施機関
丸亀市
●懸賞金対象資料
明治初期に焼失及び取り壊された山上の隅櫓・渡櫓を復元できる古写真。(明治9年頃以前の写真)
●懸賞金対象者
明治初期に焼失及び取り壊された山上の隅櫓・渡櫓を復元できる古写真の提供者。
●懸賞金基準
(1)完全復元(隅櫓11箇所・渡櫓11箇所)の資料と認められるとき (1,000万円)
(2)完全復元はできないが、一部の櫓・渡櫓が復元可能な資料として認められるとき (審議のうえ決定)
(3)復元資料として使用できないもの (0円)
●問合せ先
丸亀市教育委員会 文化課 0877-24-8822
丸亀城は一二三の段とも言われる高石垣の上に立つ城で、現在は天守閣しか残らないけど、当時は多くの隅櫓とそれを結ぶ多聞櫓が連なっていました。
この石垣の上に隅櫓が林立する姿を見てみたいものです。
天守からみた本丸の多聞櫓と隅櫓の跡です。
山麓から見た大手門と天守です。
募集の締め切りは今年の3月末までですが、残念ながらまだ一件の提供もないようです。
天守閣だけの古写真の提供はあるそうですが、それはダメのようです。
明治10年まで残っていたようなので、古写真のある可能性はありますが、みつかる可能性はかなり低いでしょう。
高松城のようにアメリカの図書館から見つかる可能性もあるでしょうが。
特に櫓や多聞櫓全ての建物の向き・階数・外部の意匠(破風・窓・狭間等が判るもの) ・隅櫓・渡櫓の高さの判る写真(石垣や樹木が写っているもの) ・ 建物内部を写した写真(骨組みがわかるもの) などは丸亀城以外でも殆どなく期待薄です。
比較的古写真が残されている江戸城や名古屋でもすべての櫓はありません。
これだけの資料が欲しいのは、文化庁が国指定史跡の復元に際して規定する①発掘によって遺構が確認できる。②設計図がある。③古写真がある。の3条件がそろう必要があるためです。
もっとも、一時のお城ブームの時には、唐津城や中津城、富山城のようにありもしない天守閣を建てたり、岡崎城や福山城のように古写真があるにもかかわらず、最上階に観光のために高欄を付けるなど、史実に忠実ではない復元が続いたことは事実ですし、それを受けての文化庁の厳しい姿勢も一面では頷けます。
遺構があれば、①の基準はクリアできる城は多いけど、設計図が残っている城は非常に少ないものです。そもそも城の櫓や天守の設計図は最高の軍事機密でオープンにしていないため、多くは廃棄処分されているのです。
中には小峰城や松代城、犬山城、高崎城のように運良く設計図が残っている城もあります。
しかし、犬山城、高崎城のようにそういう城に限って完全に破壊されていて発掘調査もできないような状況です。
高松城の天守のように鮮明な古写真や発掘調査の成果があるにもかかわらず、文化庁の許可がでない城もあります。
これが高松城の天守閣の古写真ですが、かなり鮮明です。
これほどの古写真は他には望めないでしょうが、一方向しかないのが残念です。
欲を言えば三方向からの写真が欲しいです。
しかし、そもそも写真を撮るのは、記念のためで一番いいアングルから撮るものでしょう。
当時は写真も高価で貴重なためよほどのことがないと多アングルからの写真は難しいでしょう。
丸亀城については、上記のように櫓の形のわかる城絵図もあります。
しかし、丸亀城はなんといっても丸亀市のホームページの出ている木図があります。
このような立体的な模型の残る城は他にはありません。
この木図は大変よく出来ていて、櫓の形や屋根の向きまで再現されています。
これと発掘調査の資料と絵図があればかなり史実に近い復元ができるのではないでしょうか。
そもそも文化庁はなぜかお城の復元についてのみ、基準が厳しすぎます。
これは今年遷都1300年を迎えた平城京の大極殿です。
奈良時代だからもちろん古写真はありません。
大極殿の設計図もなければ、絵図さえも残っていないのです。
復元では二階になっていますが、今でも大極殿が二階か一階かが論争されているくらいなのです。
発掘調査はしていますが、それだけで建物の上部構造はわかりません。
当時の寺院などを参考にして想像して建てたにすぎないのです。
こんな曖昧な復元なのになぜか文化庁は国指定史跡の大極殿の復元を許可したのです。
文化庁の復元建物に関する温度差を感じます。
2011-02-12 18:39
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コメント(13)
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ご訪問・niceをいただき、ありがとうございました。
お時間があれば、twitter/facebookもご覧ください。
twitter:http://bit.ly/bqPC3m
facebook: http://bit.ly/gyaZod
今後も、宜しくお願いいたします。
by 菅野郁夫 (2011-02-12 20:16)
史跡の建造物復元の基本的な考え方は、近世の場合は古写真あることが前提になっているようです。
小田原城の場合は、銅門は明治初期の写真があったので復元ができました。
一昨年、復元した馬出門は写真がなかったので、発掘、古絵図など総合的に研究して、実施設計を組んで、文化庁の文化審議会の復元検討委員会での審議を経たうえで整備されました。
したがって、馬出門は復元的整備ということになります。「的」があるかどうか大きな違いです。
一定の基準がないと、城郭建築の場合は、観光や町おこしに直結する事業であるため、時の首長が強引に史実に反する整備を進めてしまわないための措置ともいえるのではないでしょうか。
by ジュンクワ (2011-02-12 21:33)
縄文時代の三内丸山遺跡や弥生時代の吉野ヶ里遺跡などの復元は、遺構としての柱穴ぐらいしか資料はないので、建築の専門家を中心に検討して、その時点で最も妥当性のある建物が復元されているようです。
古代、中世と時代が新しくなるに従い、ハードルが高くなっていまようです。
by ジュンクワ (2011-02-12 21:37)
1000万円は凄いですね。
by goro2001 (2011-02-12 23:55)
nice!ありがとうございます。
私の知り合いにも城跡大好きオヤジがいます。
by コンブ (2011-02-13 08:23)
おはようございます。亀山城、蓬莱城とも呼ばれるお城は現存物なんですね。室町初期、城主、奈良元安どんな方だったんでしょうか?
by オカジュン765 (2011-02-13 09:23)
こんにちは。
我が家は曾祖父が香川県の生まれなので、他人事とは思えないところが有ります。
復元できると良いですね…香川県は一度行って見たい所です。
by musselwhite (2011-02-13 09:44)
水戸城は戦災で焼失するまで残っていたので、写真もたくさんあると思います。
でも、なぜか、水戸では御三階櫓を再建しようという話が盛り上がって来ません・・・
by 袋田の住職 (2011-02-13 17:20)
復元するってやっぱり大変な作業なんですね。
資料見つかれば良いですよね。
by 雨香 (2011-02-13 23:50)
ご訪問&NICE!ありがとうございました!
お城についての記事が盛り沢山ですね。
素晴らしいです!
by miya_syou (2011-02-14 00:02)
こんばんわ。度々の訪問おおきにです。そちらも雪ですか?
大阪は雪対策の弱さが露呈されてますね。高速道路は軒並み通行禁止、大阪モノレールも大幅にダイヤが乱れているようです。
by オカジュン765 (2011-02-14 21:12)
あぁぁ木図…閉館中で見られなかった…
復元はシッカリしたモノが良いと思います!
by hanamura (2011-02-15 22:05)
復元建物って、いろいろ考えさせられますね。
おっしゃるとおり、古いものほど、想像でつくるしかない部分が多くて、うちのほうの武蔵国分寺には、天平時代の七重の塔のミニチュアの復元模型が市内にいっぱいありますが、現存の五重塔の構造などから推定しているだけで、本当にこういうカタチだったのかはわからないのだそうです。
国分寺七重の塔の復元模型を見ると、なんだかどうも、天平の匂いがしないような気がしています。
by お水番 (2011-02-16 11:06)