岸の砦@兵庫県伊丹市 [お城踏査]
岸の砦は兵庫県伊丹市宮ノ前にあった中世城郭です。
有岡城の砦の一つです。
現在は猪名野神社になっています。
有岡城は惣構といって城下町まで堀と土塁で囲んでいました。
そして要所要所には砦を築いていました。
岸の砦、上臈塚砦、鵯塚砦の3つの砦が築かれました。
現在遺構が残るのは岸の砦だけです。
境内に残る土塁です。
高さは2メートルほどあります。
よく残っています。
ただ、境内には砦の説明はなかったため、少し分かりにくいです。
伊丹郷町内にある大溝です。
整備されています。
発掘のときの写真です。
伊丹は酒どころでもあります。
市内の酒蔵です。
いい感じです。
有岡城主の荒木村重は、天正6年に織田信長に叛旗を翻して有岡城に籠城します。
今から考えるとなぜ信長に背いて毛利氏に味方すると言う無謀な戦いをしたのかと思いますが、当時は決して勝算の無い戦いではなかったようです。
半年前には三木城の別所長治も叛旗を翻しています。
村重と一緒に茨木城の中川清秀や高槻城の高山右近も叛旗を翻していて、大阪の本願寺は健在で、毛利氏が後詰をすれば勝てない戦いではありませんでした。
他にも荒木氏の城は尼崎城、花隈城がありました。
一説には毛利氏に身を寄せていた足利義昭の命によって籠城したとも言われています。
村重は籠城中に単身城を抜け出して尼崎城に移ります。
このことによって有岡城は落城して、妻子や一族が信長により皆殺しにされてしまいます。
そのために村重は卑怯者のレッテルを貼られてしまい、人気もありません。
城を抜け出したのは、逃亡ではなく、援軍を直接頼みに行くためでした。
籠城していても毛利氏の後詰が無ければジリ貧です。
村重は最後は花隈城に移り、底が落城すると西国に逃げて、最後は豊臣秀吉の御伽衆として茶人として生きました。
妻子を見殺しにして自分だけが生き延びたために人気はありません。
大河ドラマではこのあたりの村重の苦悩をうまく描いていました。
有岡城の砦の一つです。
現在は猪名野神社になっています。
有岡城は惣構といって城下町まで堀と土塁で囲んでいました。
そして要所要所には砦を築いていました。
岸の砦、上臈塚砦、鵯塚砦の3つの砦が築かれました。
現在遺構が残るのは岸の砦だけです。
境内に残る土塁です。
高さは2メートルほどあります。
よく残っています。
ただ、境内には砦の説明はなかったため、少し分かりにくいです。
伊丹郷町内にある大溝です。
整備されています。
発掘のときの写真です。
伊丹は酒どころでもあります。
市内の酒蔵です。
いい感じです。
有岡城主の荒木村重は、天正6年に織田信長に叛旗を翻して有岡城に籠城します。
今から考えるとなぜ信長に背いて毛利氏に味方すると言う無謀な戦いをしたのかと思いますが、当時は決して勝算の無い戦いではなかったようです。
半年前には三木城の別所長治も叛旗を翻しています。
村重と一緒に茨木城の中川清秀や高槻城の高山右近も叛旗を翻していて、大阪の本願寺は健在で、毛利氏が後詰をすれば勝てない戦いではありませんでした。
他にも荒木氏の城は尼崎城、花隈城がありました。
一説には毛利氏に身を寄せていた足利義昭の命によって籠城したとも言われています。
村重は籠城中に単身城を抜け出して尼崎城に移ります。
このことによって有岡城は落城して、妻子や一族が信長により皆殺しにされてしまいます。
そのために村重は卑怯者のレッテルを貼られてしまい、人気もありません。
城を抜け出したのは、逃亡ではなく、援軍を直接頼みに行くためでした。
籠城していても毛利氏の後詰が無ければジリ貧です。
村重は最後は花隈城に移り、底が落城すると西国に逃げて、最後は豊臣秀吉の御伽衆として茶人として生きました。
妻子を見殺しにして自分だけが生き延びたために人気はありません。
大河ドラマではこのあたりの村重の苦悩をうまく描いていました。
2014-11-16 20:46
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コメント(4)
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白雪の蔵ですな。
by skekhtehuacso (2014-11-17 14:58)
歴史とはいろんなことがあるんですね。
村重の心中もいろいろあったんじゃないでしょうか。
by 川崎工場長 (2014-11-17 17:16)
新酒ができてましょうね。
by 夏炉冬扇 (2014-11-17 18:02)
稲名野神社、懐かしー。
小学校の頃まで初詣といえは、ここでした。
「伊丹の酒、今朝飲みたい」
なんて回文も小学校で習ったような・・・
by フジトモ (2014-11-17 21:45)