岐阜城織田信長居館跡発掘調査現地説明会 [発掘調査現説]
岐阜城の織田信長居館跡発掘調査現地説明会に行ってきました。
毎年恒例となっています。
岐阜城山麓の千畳敷と言われている一帯です。
上はその模型ですが、意外と狭いです。
発掘調査により発見された池跡です。
南北7.5m、東西6.1mの楕円形で、長良川の河原でとれるこぶし大の丸石が底に敷き詰められていました。
館の礎石とみられる直径30センチの石が2つ池の隣に埋まっていました。
フロイスの日本史に「きわめて新鮮な庭園があり、池の底には入念に選ばれた鏡のように滑らかな小石があった」とあり、フロイスの記述と一致すると説明されていました。
ただ、これだけの規模の発掘でフロイスの日本史に書かれた場所がここと断定するのは早計のような気がします。
江戸時代に描かれた岐阜城の御殿の絵です。
昭和に描かれた岐阜城御殿の想像図です。
フロイスの日本史にある4階建ての御殿を基にしています。
フロイスの記事を信用すれば、信長の御殿の1階には15ないし20の座敷がありました。
それほどの規模の建物は現在の千畳敷の場所では建てる事はできません。
ところで、岐阜城に移る前の信長の居城は小牧山城でした。
小牧山城の山麓には屋敷の跡と見られる方形の区画があります。
その中で最大の75m四方の区画がおそらく信長の御殿だったのではないでしょうか。
そうすると岐阜城の御殿もせいぜい100m四方ほどの規模だったと思われます。
千畳敷地内は小規模な曲輪が階段状に連なり御殿を作るには適していません。
むしろその下の岐阜公園の敷地が御殿の場所としては相応しいのではないでしょうか。
そこには近代に整備された池や庭園がありますが、もともと庭園があったのではないとかも思われます。
千畳敷地内の発掘調査をもう何年も行なっていますが、決定的な信長の御殿の痕跡は見つかっていません。
小さな痕跡を無理やり信長の御殿に結び付けているように思えます。
もちろん、千畳敷に何らかの建物があったことは否定しませんが、御殿の本体ではなく、奥座敷や茶室のようなものだったのではないでしょうか。
フロイスの記述によれば御殿は4階建てで金閣寺に匹敵する建物としています。
そうすると重層式の天守(金閣寺)みたいな建物だったのでしょうか。
今回の調査区の奥にある石垣です。
石垣というよりも巨大な石です。
まさに石の壁です。
これと似た遺構が福井県の一乗谷にあります。
一乗谷に入る上城戸の枡形の石垣がこれにソックリです。
最近の説では、一乗谷は朝倉氏が滅びてから、織田信長の家臣が入り、かなり城などに手を入れて改修していることがわかりました。
けっこういろいろとつながるものですね。
岐阜城千畳敷の巨石を使った虎口です。
毎年恒例となっています。
岐阜城山麓の千畳敷と言われている一帯です。
上はその模型ですが、意外と狭いです。
発掘調査により発見された池跡です。
南北7.5m、東西6.1mの楕円形で、長良川の河原でとれるこぶし大の丸石が底に敷き詰められていました。
館の礎石とみられる直径30センチの石が2つ池の隣に埋まっていました。
フロイスの日本史に「きわめて新鮮な庭園があり、池の底には入念に選ばれた鏡のように滑らかな小石があった」とあり、フロイスの記述と一致すると説明されていました。
ただ、これだけの規模の発掘でフロイスの日本史に書かれた場所がここと断定するのは早計のような気がします。
江戸時代に描かれた岐阜城の御殿の絵です。
昭和に描かれた岐阜城御殿の想像図です。
フロイスの日本史にある4階建ての御殿を基にしています。
フロイスの記事を信用すれば、信長の御殿の1階には15ないし20の座敷がありました。
それほどの規模の建物は現在の千畳敷の場所では建てる事はできません。
ところで、岐阜城に移る前の信長の居城は小牧山城でした。
小牧山城の山麓には屋敷の跡と見られる方形の区画があります。
その中で最大の75m四方の区画がおそらく信長の御殿だったのではないでしょうか。
そうすると岐阜城の御殿もせいぜい100m四方ほどの規模だったと思われます。
千畳敷地内は小規模な曲輪が階段状に連なり御殿を作るには適していません。
むしろその下の岐阜公園の敷地が御殿の場所としては相応しいのではないでしょうか。
そこには近代に整備された池や庭園がありますが、もともと庭園があったのではないとかも思われます。
千畳敷地内の発掘調査をもう何年も行なっていますが、決定的な信長の御殿の痕跡は見つかっていません。
小さな痕跡を無理やり信長の御殿に結び付けているように思えます。
もちろん、千畳敷に何らかの建物があったことは否定しませんが、御殿の本体ではなく、奥座敷や茶室のようなものだったのではないでしょうか。
フロイスの記述によれば御殿は4階建てで金閣寺に匹敵する建物としています。
そうすると重層式の天守(金閣寺)みたいな建物だったのでしょうか。
今回の調査区の奥にある石垣です。
石垣というよりも巨大な石です。
まさに石の壁です。
これと似た遺構が福井県の一乗谷にあります。
一乗谷に入る上城戸の枡形の石垣がこれにソックリです。
最近の説では、一乗谷は朝倉氏が滅びてから、織田信長の家臣が入り、かなり城などに手を入れて改修していることがわかりました。
けっこういろいろとつながるものですね。
岐阜城千畳敷の巨石を使った虎口です。
2012-11-25 00:28
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コメント(10)
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いろいろと膨らむ趣味なんですねぇ~、お城って。
史実や発掘現場を見てあれこれ考察するのは楽しそうです。
by 川崎工場長 (2012-11-25 08:40)
一昨年、岐阜城を観に行きました。
発掘調査の場所も見ましたけれど、狭い場所だな…
ほんとにここなのかな…?と思った事を憶えています。
でも、歴史のロマンを感じますね。
by vega (2012-11-25 09:16)
越して来て住んでしまうと、行かないものですね~^^
今度、主人の実家に行った際は行ってこようかな♪
by カリメロ (2012-11-25 12:04)
お写真で見る限りは狭そうな印象を受けました。
もっと調査する必要があるでしょうね。
by PATA (2012-11-25 15:28)
発掘って興味深いですね。
よく遠い昔のことがわかるか感心してしまいます。
by Take-Zee (2012-11-25 18:32)
ロープウェイの右側のところでしたか?
by ヨッシーパパ (2012-11-25 18:47)
わざわざ出向いて見聞なさるご努力には、頭が下がります。武将では何故か織田信長公に一番惹かれます。
by beny (2012-11-25 19:06)
今晩は。
信長ロマン!
by 夏炉冬扇 (2012-11-25 19:30)
岐阜城は、青春時代に良く行きましたね。
羽島に住んでいたので、遊びに行くのは岐阜でした。
by なんだかなぁ〜。横 濱男です。 (2012-11-25 20:52)
そうですね、信長の御殿の広さを考えると、岐阜公園の敷地の方に御殿があったような気がしますね。^^
by susumu (2012-11-25 22:02)