西尾城二の丸天守台復元工事の近況 12月下旬 [お城復元]
西尾城二の丸天守台復元工事の近況です。
東から見た天守台です。
隅石の部分です。
南の付櫓部分の石垣です。
付櫓が短く感じますが、南の付櫓はL字状になっているので石垣だけだと分かりにくいです。
写真で左上隅に一石だけ出ている石がありますが、そこまでが付櫓です。
南から見た天守台と付櫓です。
南から見た天守台です。
西から見た天守台です。
東から見た天守台です。
隅石の部分です。
南の付櫓部分の石垣です。
付櫓が短く感じますが、南の付櫓はL字状になっているので石垣だけだと分かりにくいです。
写真で左上隅に一石だけ出ている石がありますが、そこまでが付櫓です。
南から見た天守台と付櫓です。
南から見た天守台です。
西から見た天守台です。
鳥羽城 その4 [お城踏査]
鳥羽城のその4です。
鳥羽城の写真でよく出ている場所がここです。
家老屋敷です。
鳥羽城の中でもかなり麓に近い場所です。
でも石垣と塀があるために景観的に城らしくてよく使われました。
また、当時は本丸には学校があって写真にならなかったのでしょうね。
説明板です。
絵図の部分です。
本丸付近の石垣です。
石垣は意外とよく残っています。
鳥羽城からの海の眺めです。
島はミキモト真珠島です。
手前は鳥羽水族館です。
鳥羽市では鳥羽城の天守を復元したいとという動きがあるようです。
確かに海に面した小高い山の上にあるため、復元されればシンボル的存在になるでしょう。
先日は三浦正幸先生を呼んで鳥羽城のシンポジウムも行なったようです。
しかし、指図や古写真もなく、発掘しても天守台の遺構さえも不明確な現状では正確な復元は望めません。
いい方向で鳥羽城の整備が進むとよいのですが・・。
三の丸や二の丸での石垣の復元を見ていると少し心配になります。
(終り)
鳥羽城の写真でよく出ている場所がここです。
家老屋敷です。
鳥羽城の中でもかなり麓に近い場所です。
でも石垣と塀があるために景観的に城らしくてよく使われました。
また、当時は本丸には学校があって写真にならなかったのでしょうね。
説明板です。
絵図の部分です。
本丸付近の石垣です。
石垣は意外とよく残っています。
鳥羽城からの海の眺めです。
島はミキモト真珠島です。
手前は鳥羽水族館です。
鳥羽市では鳥羽城の天守を復元したいとという動きがあるようです。
確かに海に面した小高い山の上にあるため、復元されればシンボル的存在になるでしょう。
先日は三浦正幸先生を呼んで鳥羽城のシンポジウムも行なったようです。
しかし、指図や古写真もなく、発掘しても天守台の遺構さえも不明確な現状では正確な復元は望めません。
いい方向で鳥羽城の整備が進むとよいのですが・・。
三の丸や二の丸での石垣の復元を見ていると少し心配になります。
(終り)
鳥羽城 その3 [お城踏査]
鳥羽城@三重県鳥羽市 [お城踏査]
鳥羽城は三重県鳥羽市にあった近世城郭です。
九鬼嘉隆が文禄年間に築城しました。
その後、寛永10年に内藤忠重が入り、二の丸、三の丸を築きました。
近年、三の丸が整備されました。
石垣が積まれていますが、公園整備によるもので、あまり史実に基づいた復元ではないようです。
いかにも怪しい三つ巴の旗です。
鳥羽城主の九鬼氏の家紋です。
整備された三の丸の全景です。
ごく狭い範囲です。
すぐ前には近鉄が通っています。
鳥羽城の絵図です。
鳥羽城の城主九鬼氏は水軍の将でした。
そのため鳥羽城は大手門が海の方にありました。
四方を海で囲まれた海城でした。
鳥羽城の絵図です。
山上には三重の天守がありました。
三の丸から見た鳥羽城です。
段々になっている石垣は後世積まれたものです。
(続く)
九鬼嘉隆が文禄年間に築城しました。
その後、寛永10年に内藤忠重が入り、二の丸、三の丸を築きました。
近年、三の丸が整備されました。
石垣が積まれていますが、公園整備によるもので、あまり史実に基づいた復元ではないようです。
いかにも怪しい三つ巴の旗です。
鳥羽城主の九鬼氏の家紋です。
整備された三の丸の全景です。
ごく狭い範囲です。
すぐ前には近鉄が通っています。
鳥羽城の絵図です。
鳥羽城の城主九鬼氏は水軍の将でした。
そのため鳥羽城は大手門が海の方にありました。
四方を海で囲まれた海城でした。
鳥羽城の絵図です。
山上には三重の天守がありました。
三の丸から見た鳥羽城です。
段々になっている石垣は後世積まれたものです。
(続く)