野田城@大阪府大阪市 [お城踏査]
野田城は大阪市福島区玉川にあった中世城郭です。
環状線の野田駅のすぐ前にあります。
石碑です。
マンションの前に建っています。
遺構は全くありません。
享禄4年(1531)、浦上掃部が築城したと言われます。
その後、石山本願寺攻めの際に織田信長が付城として使っています。
石碑の裏です。
それによるとこの付近は字城の内と呼ばれていたそうです。
今は地名も変わっていて、城跡を偲ぶものは石碑のみです。
野田城の石碑は実はもう一つあります。
マンションの石碑から200メートルほど南東に極楽寺というお寺があります。
その前にも野田城の石碑が建てられています。
どちらが本当の城跡でしょうか。
城跡が広くて、両方正しいのでしょうか。
お寺のほうが少し土地が高くなっているような気がしましたので、こちらのほうが主要部だったのでしょうか。
環状線の野田駅のすぐ前にあります。
石碑です。
マンションの前に建っています。
遺構は全くありません。
享禄4年(1531)、浦上掃部が築城したと言われます。
その後、石山本願寺攻めの際に織田信長が付城として使っています。
石碑の裏です。
それによるとこの付近は字城の内と呼ばれていたそうです。
今は地名も変わっていて、城跡を偲ぶものは石碑のみです。
野田城の石碑は実はもう一つあります。
マンションの石碑から200メートルほど南東に極楽寺というお寺があります。
その前にも野田城の石碑が建てられています。
どちらが本当の城跡でしょうか。
城跡が広くて、両方正しいのでしょうか。
お寺のほうが少し土地が高くなっているような気がしましたので、こちらのほうが主要部だったのでしょうか。
阪急電車7000系 [鉄道]
阪急電車です。
阪急梅田駅で撮影したものです。
7000系です。
梅田駅はJRだと大阪駅になります。
梅田駅は阪神電鉄もあります。
大阪ではJRのターミナル駅が私鉄と分離していて、今ひとつ関係がわかりにくいです。
東京ならば、例えば新宿駅では山手線や中央線ののJR新宿駅のなかに、京王帝都電鉄、小田急電鉄が入っていて、駅名も同じです。
いわば官と民が同じターミナル駅に入っています。
ところが大阪ではJRは大阪駅、私鉄は梅田駅と駅名も別々でターミナル駅も別々です。
これは関西の私鉄の国鉄にもたれない自立の精神から来ているといわれますが、関西以外の人から見ると駅内が違うので、どの駅とどの駅がつながるのか分かりにくく、戸惑います。
近鉄や南海もそうです。
余談ですが、関東と関西の間の名古屋では、その中間で、JRのターミナル駅に近い名鉄の駅名は「新」を付けています。
新名古屋、新岐阜、新一宮、新安城、新可児などです。
豊橋は同じ駅内に名鉄とJRが同居する珍しい構造で、ここだけはそのまま豊橋駅です。
新名古屋は今は名鉄名古屋に変わりました。
このように鉄道を見ていくと関東と関西、中部の文化の違いが見えてきて面白いです。
車内です。
グリーンのベンチシートです。
前照灯は丸目です。
阪急梅田駅で撮影したものです。
7000系です。
梅田駅はJRだと大阪駅になります。
梅田駅は阪神電鉄もあります。
大阪ではJRのターミナル駅が私鉄と分離していて、今ひとつ関係がわかりにくいです。
東京ならば、例えば新宿駅では山手線や中央線ののJR新宿駅のなかに、京王帝都電鉄、小田急電鉄が入っていて、駅名も同じです。
いわば官と民が同じターミナル駅に入っています。
ところが大阪ではJRは大阪駅、私鉄は梅田駅と駅名も別々でターミナル駅も別々です。
これは関西の私鉄の国鉄にもたれない自立の精神から来ているといわれますが、関西以外の人から見ると駅内が違うので、どの駅とどの駅がつながるのか分かりにくく、戸惑います。
近鉄や南海もそうです。
余談ですが、関東と関西の間の名古屋では、その中間で、JRのターミナル駅に近い名鉄の駅名は「新」を付けています。
新名古屋、新岐阜、新一宮、新安城、新可児などです。
豊橋は同じ駅内に名鉄とJRが同居する珍しい構造で、ここだけはそのまま豊橋駅です。
新名古屋は今は名鉄名古屋に変わりました。
このように鉄道を見ていくと関東と関西、中部の文化の違いが見えてきて面白いです。
車内です。
グリーンのベンチシートです。
前照灯は丸目です。
富松城@兵庫県尼崎市 [お城踏査]
富松城は兵庫県尼崎市富松町にあった中世城郭です。
阪急電鉄武庫之荘駅から少し歩いて訪ねました。
城跡の目の前の交差点は富松城跡です。
こんもりと茂った林が富松城跡です。
街中に良くぞ残ったとうれしくなります。
一時は消滅の危機にありましたが、保存運動のおかげで残ったそうです。
当時の運動の際に立てられた標識が残っています。
堀址です。
水はなく、随分と狭くなっていますが、間違いなく堀の跡です。
かつては二重堀だったようです。
説明です。
富松荘の管理人であった薬師寺氏によって築かれた可能性が高い。
長享元年(1487)の文書に記されるため、この頃には城があったようである。
その後戦国時代には細川氏や三好長慶などの戦いに巻き込まれていきます。
富松城の土塁です。
手前に柵があり、入れません。
城跡は残されましたが、私有地なのか荒れたままになっています。
その後の保存運動はどうなったのでしょうか。
いろいろと問題はあるでしょうが、市有地化して公園整備などを行わないと再度消滅する可能性はあるのではないでしょうか。
街中の城跡なので残すことはいろいろと難しいでしょうが、後世に歴史を伝えるためにこのまま残して欲しいですね。
城跡を生かした街づくりを進めて欲しいです。
阪急電鉄武庫之荘駅から少し歩いて訪ねました。
城跡の目の前の交差点は富松城跡です。
こんもりと茂った林が富松城跡です。
街中に良くぞ残ったとうれしくなります。
一時は消滅の危機にありましたが、保存運動のおかげで残ったそうです。
当時の運動の際に立てられた標識が残っています。
堀址です。
水はなく、随分と狭くなっていますが、間違いなく堀の跡です。
かつては二重堀だったようです。
説明です。
富松荘の管理人であった薬師寺氏によって築かれた可能性が高い。
長享元年(1487)の文書に記されるため、この頃には城があったようである。
その後戦国時代には細川氏や三好長慶などの戦いに巻き込まれていきます。
富松城の土塁です。
手前に柵があり、入れません。
城跡は残されましたが、私有地なのか荒れたままになっています。
その後の保存運動はどうなったのでしょうか。
いろいろと問題はあるでしょうが、市有地化して公園整備などを行わないと再度消滅する可能性はあるのではないでしょうか。
街中の城跡なので残すことはいろいろと難しいでしょうが、後世に歴史を伝えるためにこのまま残して欲しいですね。
城跡を生かした街づくりを進めて欲しいです。