茂福城@三重県四日市市 [お城踏査]
茂福城は三重県四日市市茂福町にあった中世城郭です。
城跡は近鉄の線路脇にあります。
手前の線路は近鉄です。
近鉄電車と茂福城のコラボです。
羽津城に続いて、近鉄ネタが続きます。
左の林が城跡です。
石碑です。
後ろの林が城跡です。
説明です。
説明文や四日市市の説明は以下の通りです。
城跡を標示する石柱と最後の城主茂福盈豊の碑が建てられています。
この碑文によると、貞冬という人物が越前朝倉氏のもとにいましたが、応永年間(1394~1428)の乱を避けて当地に移り、地名に因んで茂福氏を名乗ったとされます。
また、朝明川上流の保々に城を構えていた朝倉氏は、その同族といわれています。
「伊勢軍記」によれば、永禄3年(1560)に茂福氏は羽津城の田原氏と合戦に及び勝利したとあり、その7年後に城主朝倉盈豊は、長嶋で織田信長の家臣である瀧川一益に謀殺されたとあります。
その際、斬られた主人の首を家臣の小川宗春が奪い取り、朝明郡保々(朝倉氏の本拠地)に葬ったといわれます。
この時の戦いで茂福城は落城したとされます。
昭和52年の発掘調査で、外堀の一部とされる遺構や土器、山茶碗などが見つかりました。
城主の碑です。
城跡と伝えられる一部が林となっているだけで、その他は遺構はありません。
城跡は近鉄の線路脇にあります。
手前の線路は近鉄です。
近鉄電車と茂福城のコラボです。
羽津城に続いて、近鉄ネタが続きます。
左の林が城跡です。
石碑です。
後ろの林が城跡です。
説明です。
説明文や四日市市の説明は以下の通りです。
城跡を標示する石柱と最後の城主茂福盈豊の碑が建てられています。
この碑文によると、貞冬という人物が越前朝倉氏のもとにいましたが、応永年間(1394~1428)の乱を避けて当地に移り、地名に因んで茂福氏を名乗ったとされます。
また、朝明川上流の保々に城を構えていた朝倉氏は、その同族といわれています。
「伊勢軍記」によれば、永禄3年(1560)に茂福氏は羽津城の田原氏と合戦に及び勝利したとあり、その7年後に城主朝倉盈豊は、長嶋で織田信長の家臣である瀧川一益に謀殺されたとあります。
その際、斬られた主人の首を家臣の小川宗春が奪い取り、朝明郡保々(朝倉氏の本拠地)に葬ったといわれます。
この時の戦いで茂福城は落城したとされます。
昭和52年の発掘調査で、外堀の一部とされる遺構や土器、山茶碗などが見つかりました。
城主の碑です。
城跡と伝えられる一部が林となっているだけで、その他は遺構はありません。