二つあった桶狭間古戦場 愛知県名古屋市緑区編 その1 [歴史雑話]

もう一つの桶狭間古戦場です。

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名古屋市緑区にあります。
行政区が違うためちょっとした本家争いになっています。

今は公園になっています。
とは言っても最近整備したため、いかにもいろいろ作ったという感じです。

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今川義元首洗いの泉の看板です
昭和61年の区画整理まで清水が出ていたとあります。

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その泉です。

いかにも最近作りましたという感じです。

果たして本当にここで首を洗ったのか極めて怪しいです。

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今川義元戦死の地の石碑です。

これも新しそうです。

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駿公墓石です。

これは田楽坪の「ねづ塚」に埋まっていました。
昭和28年に偶然見つかったものです。
当時の人が敗軍の将を生めることをはばかり、ひっそりと埋葬したものだそうです。

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今川義元馬つなぎのねずの木です。

今川義元が田楽坪で馬に泉の水を飲ませるためにつないだ木といわれます。

田の中にねず塚と伝えられてきました。

この木に触ると熱病にかかると言い伝えられています。

そういえば、豊明にも同じような馬つなぎの木がありました。

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今川義元と織田信長の像です。

両雄があるのは珍しい。

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桶狭間古戦場田楽坪の碑です。

『日本中古治乱記』には桶狭間合戦の合戦地は桶狭間のうち田楽坪とあるため、古くから田楽坪と呼ばれていたこの地を古戦場としているようです。

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名古屋市教育委員会が建てた説明です。

豊明説とは真っ向勝負です。

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公園内にある説明です。

豊明と同じく地図や説明がありわかりやすくなっています。

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地図の拡大です。

豊明市の古戦場とはおけはざま山をはさんで反対にあることがわかります。

2つの古戦場の距離は直線で約1キロです。

今川軍の兵力は2万5千人と言われるように、合戦自体は広範囲で行われたので、どちらの場所も広い意味では古戦場でしょう。
ポイントとしては、今川義元が休憩していた本陣の場所はどこかと、今川義元が戦死した場所はどこかということでしょう。

名古屋市の古戦場公園はいかにも最近作りましたという公園で、それ自体は史跡としての価値はありません。
しかし、だからといって名古屋市の古戦場も全く眉唾ではありません。
それは、周囲に古戦場に関する史跡が伝承地が多くあるからです。
それについては、次回に紹介します。

(続く)

二つあった桶狭間古戦場 愛知県豊明市編 [歴史雑話]

永禄3年(1560)に織田信長が今川義元の大軍を討ち破った桶狭間合戦は教科書にもでているくらい有名ですね。
しかし、実はこの今川義元が戦死した場所というのは実は2ケ所説があるのです。

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こちらは豊明市にある桶狭間古戦場です。

公園になっています。

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石碑が建っています。

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公園の隣の高徳院です。

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ここには今川義元本陣跡の石碑が建っています。

以前は境内に古戦場の資料館もありましたが、今は閉鎖しているようです。

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高徳院の絵馬です。
古戦場らしいですね。

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古戦場の説明板です。

公園の案内と古戦場の案内が書かれています。

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拡大図です。

大高城、丸根砦、鷲津砦、鳴海城、桶狭間などの位置関係が分かりやすいです。

信長の進路が善照寺砦 → 中島砦 → 桶狭間というように分かりやすく表示されています。

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高徳院にある今川義元の墓碑です。

仏式の墓碑で、法名を刻んで建てられた供養塔です。

今川義元の300回忌にあたる万延元年に建てられました。
もう幕末に近い頃ですね。

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義元の墓碑の近くにあるお化け地蔵です。
古戦場らしくお化けが出たのでしょうか。

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古戦場の説明です。

ここが田楽狭間または館狭間と呼ばれていました。

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七石表と言われ、今川義元の戦死地を示す石碑です。
明和8年(1771)に尾張藩士人見弥右衛門らにより建てられました。

一号碑は今川義元の戦死した場所を示します。
二号碑は松井宗信戦死の場所を示します。
三号碑以下は義元の武将五人の戦死の場所ですが、氏名は不詳です。

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今川義元の墓です。

明治9年、名古屋市緑区有松の山口正義が建てたものです。

今川義元が鎧をかけた樹も残っています。

桶狭間古戦場の公園はそれほど広くはないのですが、ここには墓や碑などが所狭しと並んでいます。
こんなにも狭い範囲で戦死したのかと疑問にも感じますが、碑などは江戸時代に建てられたものなので、江戸時代にはここが古戦場と認識していたようです。

今でこそ、周りには住宅地になっていますが、昭和の頃には、近くに特殊な病院があり、一種独特の雰囲気をかもしだしていた場所でもありました。


日本城郭史学会大会「古河公方をめぐる戦と城郭」 [お城情報]

お城に関するイベントです。
会員以外の方も参加できます。


日本城郭史学会大会「古河公方をめぐる戦と城郭」
日 時 2015年4月25日(土)11時00分~
場 所 江戸東京博物館(東京都墨田区横綱1-4-1)
参加費 2,500円(会員外3,000円)
内 容
「古河公方の成立をめぐって - 足利成氏の目ざしたもの」伊藤一美氏 (鎌倉考古学研究所)
「南北朝~戦国初期東国における「陣」について」竹井英文氏 (東北学院大学)
「古河公方研究の課題」佐藤博信氏 (千葉大学名誉教授)
問合せ
日本城郭史学会
℡03-3967-1948

二村山(愛知県豊明市) [歴史雑話]

二村山は愛知県豊明市にある山です。

豊明市の最高地点で標高71.8メートルです。

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二村山には峠があります。

峠にある地蔵堂です。

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中に三体の地蔵様が祭られています。

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その中の一体が身代わり地蔵像です。

首がありません。

この地蔵には以下の伝説があります。

平安時代末期頃に二村山を本拠としていた熊坂長範という山賊がいて、旅人を襲っていました。
ある夜一刀両断に斬り殺した旅人の身代わりに地蔵がなったというのです。

確かに刀で切ったように首がなくなっています。

地蔵の背面には「大同二」(807年)という年号が刻まれています。

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こちらは切られ地蔵です。

刀で切られたように真っ二つになっています。

同じような地蔵様が二つあるのは珍しい。

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説明です。

胴体が切られたように斜めに別々になっています。

別名「袈裟切り地蔵」ともいわれます。

江戸時代に伝説を元に身代わり地蔵として建てられましたが、元文5年(1740年)に落雷によって本当に二つに分かれてしまったそうです。
なんともびっくりする話です。

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この山は古くから景勝の地でした。
二村山勝地との碑が建てられています。

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かつてはこの二村山の峠を鎌倉街道が通っていました。

源頼朝もこの道を通りました。

頼朝がこを通ったときに詠んだ歌です。

よそに見し小笹のうえの白露をたもとにかくる二むらの山

景勝地だけに、他にも、西行、藤原俊成、飛鳥井雅経、九条基家、大江匡房など多くの歌人が歌をここで詠んでいます。


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今でも山中にかつての鎌倉街道が残っています。


沓掛城@愛知県豊明市 [お城踏査]

沓掛城は愛知県豊明市沓掛にあった中世城郭です。

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石碑です。

沓掛城は桶狭間合戦の時に今川義元が直前に泊まっています。

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沓掛城の現状図です。

本丸は公園になっています。
名古屋市に近いにもかかわらず比較的よく遺構が残っています。

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本丸北の堀です。
橋が架かっていますが公園のためにかけたものです。

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本丸の東の堀です。
箱堀となっていて、幅は15メートル以上あります。

広い堀は戦国末期の城であることを示しています。

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本丸内部です。
右は幅広の土塁もあります。
中央は井戸の跡です。

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本丸前の曲輪です。
その形態から馬出と位置づけられます。
馬出の存在からも桶狭間合戦以降も使われていたと思われます。

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