本証寺展 [歴史雑話]
安城歴史博物館で本証寺展を開催中です。
本証寺を見たついでに見学してきました。
本証寺の堀の範囲を発掘調査などの成果で示したものです。
東西320メートル、南北310メートルに及びます。
かなり広い範囲です。
法然上人像です。
聖徳太子立像です。
太子16歳のときの像と言われます。
壁に本証寺の堀の断面図が書かれていました。
近くで見るとその大きさに圧倒されます。
深さ3.5メートルほどの薬研堀でした。
発掘で出た遺物です。
寺内の鍛冶遺構です。
寺内で鍛冶を行っていたことがわかります。
伊奈忠次絵図証文です。
慶長6年のものです。
鴛香炉です。
青銅器製です。
明治年間の本証寺の絵図です。
明治期の様子がわかります。
甲冑体験も博物館で行われていました。
その時の背景の絵です。
お城が描かれていますが、勝山城、唐津城、西尾城、広島城(門)が合成されています。
なかなかすごい城になっています。
安城市歴史博物館
愛知県安城市安城町城堀30
℡056-77-6655
本証寺を見たついでに見学してきました。
本証寺の堀の範囲を発掘調査などの成果で示したものです。
東西320メートル、南北310メートルに及びます。
かなり広い範囲です。
法然上人像です。
聖徳太子立像です。
太子16歳のときの像と言われます。
壁に本証寺の堀の断面図が書かれていました。
近くで見るとその大きさに圧倒されます。
深さ3.5メートルほどの薬研堀でした。
発掘で出た遺物です。
寺内の鍛冶遺構です。
寺内で鍛冶を行っていたことがわかります。
伊奈忠次絵図証文です。
慶長6年のものです。
鴛香炉です。
青銅器製です。
明治年間の本証寺の絵図です。
明治期の様子がわかります。
甲冑体験も博物館で行われていました。
その時の背景の絵です。
お城が描かれていますが、勝山城、唐津城、西尾城、広島城(門)が合成されています。
なかなかすごい城になっています。
安城市歴史博物館
愛知県安城市安城町城堀30
℡056-77-6655
本証寺 [寺院]
本証寺は愛知県安城市野寺町にあります。
山門です。
浄土真宗の本寺です。
城郭伽藍として有名です。
お城のように堀と石垣、櫓があります。
昨年国指定史跡となりました。
三河一向一揆のときに徳川家康と戦い、家康を苦しめたお寺です。
お城の櫓みたいに見えますが、太鼓楼と呼ばれています。
二階部分に太鼓が置かれています。
堀です。
堀は二重にめぐらされていました。
外堀の一部です。
水堀で今は蓮池になっています。
寺の北に残る外堀です。
こちらは空堀です。
内堀の正面は石垣が積まれていますが、他は石垣はなく、北や西は空堀でした。
このあたりの堀はまさにお城って感じです。
三河一向一揆の後は寺院は破却されて、野原になりました。
和睦の条件として家康は寺は元のままにすると約束しました。
しかし、戦いが終わると家康は元のままというのは、もともとは野原だったので、寺を壊せと厳命して破壊してしまいます。
大阪冬の陣みたいですね。
その後、江戸時代になると再興を許されてお寺を再建されました。
そのときに再び戦国時代のような堀を掘りなおしたようです。
今、安城市歴史博物館で本証寺展を開催しています。
合わせて見学するといいでしょう。
山門です。
浄土真宗の本寺です。
城郭伽藍として有名です。
お城のように堀と石垣、櫓があります。
昨年国指定史跡となりました。
三河一向一揆のときに徳川家康と戦い、家康を苦しめたお寺です。
お城の櫓みたいに見えますが、太鼓楼と呼ばれています。
二階部分に太鼓が置かれています。
堀です。
堀は二重にめぐらされていました。
外堀の一部です。
水堀で今は蓮池になっています。
寺の北に残る外堀です。
こちらは空堀です。
内堀の正面は石垣が積まれていますが、他は石垣はなく、北や西は空堀でした。
このあたりの堀はまさにお城って感じです。
三河一向一揆の後は寺院は破却されて、野原になりました。
和睦の条件として家康は寺は元のままにすると約束しました。
しかし、戦いが終わると家康は元のままというのは、もともとは野原だったので、寺を壊せと厳命して破壊してしまいます。
大阪冬の陣みたいですね。
その後、江戸時代になると再興を許されてお寺を再建されました。
そのときに再び戦国時代のような堀を掘りなおしたようです。
今、安城市歴史博物館で本証寺展を開催しています。
合わせて見学するといいでしょう。
西高木家陣屋@岐阜県大垣市 その2 [お城踏査]
西高木家陣屋の続きです。
どうして西高木家なのかというと、実は東高木家と北高木家の3家がありました。
写真は屋敷絵図です。
3家は隣接していました。
西高木家が2400石で、東高木家と北高木家はともに1000石でした。
3家は交代寄合美濃衆と呼ばれ、城主格であり、参勤交代も行いました。
陣屋の絵図です。
陣屋とは言っても城主格で、天守はないものの、石垣の規模は城郭を髣髴させます。
陣屋としては規模の大きなものでした。
下から見た石垣です。
この写真のアングルはよく使われます。
石碑です。
美の衆陣屋跡と刻まれています。
石垣です。
この部分はしっかり築いています。
東高木家の土蔵です。
壁は海鼠壁です。
現存の建物です。
北高木家は遺構は残っていません。
蔵のすぐ下に伊勢街道が走っています。
西高木家の長屋門です。
左は郷土資料館です。
(終)
どうして西高木家なのかというと、実は東高木家と北高木家の3家がありました。
写真は屋敷絵図です。
3家は隣接していました。
西高木家が2400石で、東高木家と北高木家はともに1000石でした。
3家は交代寄合美濃衆と呼ばれ、城主格であり、参勤交代も行いました。
陣屋の絵図です。
陣屋とは言っても城主格で、天守はないものの、石垣の規模は城郭を髣髴させます。
陣屋としては規模の大きなものでした。
下から見た石垣です。
この写真のアングルはよく使われます。
石碑です。
美の衆陣屋跡と刻まれています。
石垣です。
この部分はしっかり築いています。
東高木家の土蔵です。
壁は海鼠壁です。
現存の建物です。
北高木家は遺構は残っていません。
蔵のすぐ下に伊勢街道が走っています。
西高木家の長屋門です。
左は郷土資料館です。
(終)