名古屋城本丸御殿の復元工事の近況26年9月下旬 [名古屋城本丸御殿]
名古屋城本丸御殿の復元工事の近況です。
こちらの名古屋城は尾張名古屋です。
孔雀の間です。
同じく孔雀の間です。
別アングルです。
梁が載りました。
太いです。
孔雀の間の入側部分は既に屋根工事に入っていました。
右上が上御膳所、左上が梅の間です。
梅の間は一部小屋組も始まっていました。
どんどん形が出来上がってきました。
本丸御殿の概略図です。
ピンクの部分が第2期工事で、今行っているところです。
工事のスケジュールです。
2期工事も半分を過ぎました。
完成予想図です。
右から、玄関、表書院、上洛殿です。
御殿の平面図です。
こちらの名古屋城は尾張名古屋です。
孔雀の間です。
同じく孔雀の間です。
別アングルです。
梁が載りました。
太いです。
孔雀の間の入側部分は既に屋根工事に入っていました。
右上が上御膳所、左上が梅の間です。
梅の間は一部小屋組も始まっていました。
どんどん形が出来上がってきました。
本丸御殿の概略図です。
ピンクの部分が第2期工事で、今行っているところです。
工事のスケジュールです。
2期工事も半分を過ぎました。
完成予想図です。
右から、玄関、表書院、上洛殿です。
御殿の平面図です。
名護屋城@佐賀県唐津市 その5 [お城踏査]
名護屋城の続きです。
名護屋城の石碑です。
ところで、名護屋城に入るのには有料です。
建物はないのですが、石垣を保護したり管理するのに経費がかかるためです。
山里曲輪です。
山麓近くにあります。
食い違い虎口です。
5回も折れ曲がります。
このあたりは熊本城と似ています。
同じく山里丸の虎口です。
石垣は崩壊が激しかったために、この部分は積みなおされています。
とても見やすくなっています。
説明板です。
山里丸は名護屋城の中でも別荘地的な曲輪でした。
戦いのためというより、茶室や能舞台がありました。
大坂城にも本丸の下に山里丸があります。
大坂夏の陣で豊臣秀頼と淀君が自害した場所でもあります。
上山里丸の北虎口です。
石垣が残っています。
上山里丸には現在広沢寺が建っています。
肥前名護屋城図屏風に描かれた名護屋城の山里丸です。
二重櫓は月見櫓です。
二階部分に高欄が付いています。
ここから秀吉も月を眺めたのでしょうね。
以上で名護屋城の記事は終わりです。
(終わり)
名護屋城の石碑です。
ところで、名護屋城に入るのには有料です。
建物はないのですが、石垣を保護したり管理するのに経費がかかるためです。
山里曲輪です。
山麓近くにあります。
食い違い虎口です。
5回も折れ曲がります。
このあたりは熊本城と似ています。
同じく山里丸の虎口です。
石垣は崩壊が激しかったために、この部分は積みなおされています。
とても見やすくなっています。
説明板です。
山里丸は名護屋城の中でも別荘地的な曲輪でした。
戦いのためというより、茶室や能舞台がありました。
大坂城にも本丸の下に山里丸があります。
大坂夏の陣で豊臣秀頼と淀君が自害した場所でもあります。
上山里丸の北虎口です。
石垣が残っています。
上山里丸には現在広沢寺が建っています。
肥前名護屋城図屏風に描かれた名護屋城の山里丸です。
二重櫓は月見櫓です。
二階部分に高欄が付いています。
ここから秀吉も月を眺めたのでしょうね。
以上で名護屋城の記事は終わりです。
(終わり)
名護屋城@佐賀県唐津市 その4 [お城踏査]
唐津市鎮西町の名護屋城の続きです。
馬場跡です。
本丸のすぐ下にあります。
ここで馬を走らせていたのでしょうね。
直線の細長い曲輪です。
馬場櫓台です。
馬場の中ほどにあります。
二の丸から見た本丸石垣です。
ここも隅が壊されています。
「破城」の跡です。
名護屋城の整備は壊れた石垣を積みなおすのではなく、「破城」によって壊された石垣そのものが歴史的資料ということで、壊されたままの状態で保存しています。
壊れた状態も歴史なのです。
遊撃丸から見た天守台です。
石垣はみごとに外されています。
本丸から見た遊撃丸です。
周囲を石塁で囲んでいます。
非常に防御性の高い曲輪です。
天守台の直下にあるからでしょうか。
左下は虎口です。
遊撃丸の石垣です。
ところどころ石垣が崩されています。
遊撃丸の石塁です。
とてもきれいに残っています。
整備のため一部積み直されています。
二の丸の舟手口です。
ここから海に通じていました。
二の丸とはいうものの、む二の丸からは直接本丸には通じていませんでした。
二の丸の石垣です。
合坂になっています。
弾正丸の虎口です。
搦め手門です。
弾正丸には浄水場が建てられています。
弾正丸の名は浅野長政がいたことに由来します。
浅野長政の官職名が「弾正少弼」といったからです。
(続く)
馬場跡です。
本丸のすぐ下にあります。
ここで馬を走らせていたのでしょうね。
直線の細長い曲輪です。
馬場櫓台です。
馬場の中ほどにあります。
二の丸から見た本丸石垣です。
ここも隅が壊されています。
「破城」の跡です。
名護屋城の整備は壊れた石垣を積みなおすのではなく、「破城」によって壊された石垣そのものが歴史的資料ということで、壊されたままの状態で保存しています。
壊れた状態も歴史なのです。
遊撃丸から見た天守台です。
石垣はみごとに外されています。
本丸から見た遊撃丸です。
周囲を石塁で囲んでいます。
非常に防御性の高い曲輪です。
天守台の直下にあるからでしょうか。
左下は虎口です。
遊撃丸の石垣です。
ところどころ石垣が崩されています。
遊撃丸の石塁です。
とてもきれいに残っています。
整備のため一部積み直されています。
二の丸の舟手口です。
ここから海に通じていました。
二の丸とはいうものの、む二の丸からは直接本丸には通じていませんでした。
二の丸の石垣です。
合坂になっています。
弾正丸の虎口です。
搦め手門です。
弾正丸には浄水場が建てられています。
弾正丸の名は浅野長政がいたことに由来します。
浅野長政の官職名が「弾正少弼」といったからです。
(続く)
名護屋城@佐賀県唐津市 その3 [お城踏査]
名護屋城の続きです。
名護屋城は現在は唐津市ですが、合併以前は鎮西町でした。
唐津市も広くなりました。
名護屋城の図です。
織豊期城郭らしい整然とした縄張りです。
本丸の天守台です。
石垣は破壊されていて残っていません。
やはり重要部分なので徹底的に破城されています。
天守跡の石碑です。
隅に建てられています。
天守台の説明です。
これも陶板です。
天守の平面図のアップです。
ここには五重の天守が聳えていました。
天守の大きさは東西19メートル、南北23メートルの長方形でした。
肥前名護屋城図屏風に描かれた天守です。
五重で内部は7階の立派な天守でした。
天守台は実際より小さく感じました。
石垣がなくなっているからでしょうか。
周囲は土塁状に高まりがありました。
もしかしたら穴蔵になっていたのでしょうか。
礎石が一部残っていました。
名護屋城の石碑です。
本丸からは海がよく見えます。
本丸には秀吉の御殿が建てられていました。
今は礎石しかありません。
礎石によって平面復元されています。
本丸の図面です。
屏風の本丸部分です。
本丸には所狭しと御殿が建ち並んでいました。
秀吉の黄金の茶室もあったようです。
(続く)
名護屋城は現在は唐津市ですが、合併以前は鎮西町でした。
唐津市も広くなりました。
名護屋城の図です。
織豊期城郭らしい整然とした縄張りです。
本丸の天守台です。
石垣は破壊されていて残っていません。
やはり重要部分なので徹底的に破城されています。
天守跡の石碑です。
隅に建てられています。
天守台の説明です。
これも陶板です。
天守の平面図のアップです。
ここには五重の天守が聳えていました。
天守の大きさは東西19メートル、南北23メートルの長方形でした。
肥前名護屋城図屏風に描かれた天守です。
五重で内部は7階の立派な天守でした。
天守台は実際より小さく感じました。
石垣がなくなっているからでしょうか。
周囲は土塁状に高まりがありました。
もしかしたら穴蔵になっていたのでしょうか。
礎石が一部残っていました。
名護屋城の石碑です。
本丸からは海がよく見えます。
本丸には秀吉の御殿が建てられていました。
今は礎石しかありません。
礎石によって平面復元されています。
本丸の図面です。
屏風の本丸部分です。
本丸には所狭しと御殿が建ち並んでいました。
秀吉の黄金の茶室もあったようです。
(続く)